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本音

  先日、中学校の同級生と飲んだ。お互いにとって初めてのサシ飲みだった。会を持ちかけたのは僕である。1か月前に開催された同窓会で8年ぶりに再会した際にあまり話せなかったのを悔やんでいた。彼が近く海外へと発ってしまうこともあり、その前に話しておきたいと思ったのだ。 
    新宿区役所前で待ち合わせた。彼は相変わらずホストのような身なりで、それに少しホッとしたのを覚えている。歓楽街を抜け、落ち着いた居酒屋を目指す。それなりに緊張しながら、話したいことを頭の中でまとめていた。無数のネオンが視界に飛び込んでくる。その端で、性感マッサージ店の置き看板が傾いていた。
 座ると同時に、僕と彼は煙草を取り出した。薄暗い店内で煙草をくゆらせる。彼は昔から喫煙者のようで、手つきは慣れていた。慣れを通り越して、飽きているようにも見えた。思わず口元がほころんでしまう。喫煙に飽きる22歳という同級生を、妙に懐かしく感じながらも、それを打ち消すほどの新鮮さで以って眺める。ホームルームではなく居酒屋で、弁当の代わりに酒とツマミが出てくる。サラダを取り分ける必要もなかった中学時代は、やはりとうに昔の光景なのだ。
 当たり障りのない話はしなかった。自己紹介も抜きである。どちらかが話すたびに、もう一方が反応する。いたって普通の会話だが、そこには建前も遠慮もなく、ただただ心地よい言葉だけがあった。こういう話ができる友人が何人いるだろう。頭の中で指を折るが、左手は登場しない。
 本音とは何だろう。本当の気持ちというものが存在するのなら話は簡単で、それを言葉にするだけでいい。しかし、本当の気持ちとやらは頭をもたげることなく過ぎていくのが日常、いや、それこそが、日常である。何が本当なのか考える場面は存外に少ない。その場を楽しく切り抜けるためには、平気で嘘をつくし、笑顔を作る。それが人間だし、人間らしいコミュニケーションだ。その人に見せる自分は、紛れもなく「見せたい自分」なのだ。責められる謂れはないだろう。
 それでも。
 居酒屋を出る。二軒目は、さらに薄暗さを増したバーだ。膝を突き合わせ、尽きない話をし続ける。次第に奇妙な感覚に陥る。見せたい自分はどこにいったのだろうか。そういえば先ほどから輪郭があいまいになっていた。脳でなく、肚の底から言葉が出てくる。見せたい自分はどこだろう。考える隙もなく、さらに言葉が出てくる。笑う。ため息をつく。感心する。おかしい。コミュニケーションはどうした。
 気づく。本当の気持ちなんて、やはりないのだろう。しかし、書類が見つからないほど散らかった部屋も、それはそれでくつろげる。くつろいだ自分がいるとき、それが本音だと言い張りたい自分も、同時に見つかる。
 帰り道、性感マッサージの置き看板がまっすぐに戻っていたのを、やけに覚えている。改札口で、どちらからともなく発せられた「また」は、そう遠くないうちに訪れるだろう。そんな予感を抱きながら、山手線の終電に飛び乗った。