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 オカマとの対談ブログ(http://dimdouwa.hatenablog.com/)を始めて、早くも一週間が経過した。試行錯誤の段階ではあるが、ある程度の方向性が見えてきたと自負している。しかし、ひとつ問題点が。オカマのLINEの返信が、少し遅いのだ。それには「オカマは忙殺されている」という立派な理由があるため、何も言えない。

 何とか更新頻度をあげるために、比較的時間があるクソ大学生の僕が単独の記事を書くことも考えた。しかしそれでは「オカマとノンケの往復書簡」というブログタイトルが羊頭狗肉になってしまう。あのブログは形式が統一されていることに価値がある。少なくとも今の段階では、ブログとしての一貫性を追求するのが筋である。

 そこで、いっそ分けてみることにした。童話単独のブログである。相互リンクを貼っておけば、あちらのブログが更新されない日はこちらを読んでもらえる。目の肥えた活字中毒者たちの憩いの場になれるのではないか。そして僕にとっても、文章の練習の場としての価値がある。そう考えた。

 

 当ブログの簡単な説明をする。このブログは、大枠として「言葉について考える」というテーマを設けている。それは様々な形で現れることになるが、どうか楽しみながら読み進めていってもらえると嬉しい。さて、具体的にどういうことかというと。

 

 当記事の1行目。「試行錯誤の段階ではあるが」と書いたが、試行錯誤の段階ではないコンテンツなどこの世に存在するのだろうか。また、何を以て僕は「試行錯誤の段階」という言葉を用いたのだろうか。あまりに浅はかな表現であることは否めない。

 2行目。「方向性」とは何か。こちらもよく見かける言葉だが、どのような気持ちで使っているのだろうか。方向性などという目に見えないものを捉えられている時点で、かなり玄人の匂いがしてしまう。安易に使っていいのだろうか。

 5行目。「比較的時間があるクソ大学生」という表現における「クソ」が持つ意義とは。レトリックの世界では「強調」にどんな効果を見出すのか。

 3段落目。「あちら」「こちら」という言葉がここで”使用できる理由”は何だろうか。どんな文章にも登場する「指示語」には、書き手の様々な思いが込められているはずである。

 

 これでもかなり省略した。上の例で分かっていただけるように、文章というものは「何気なく」読みすぎであり、また、書きすぎなのだ。もちろん僕もそうである。このことが何とも気持ち悪く感じられるようになった。そこで、この場を借りて「日本語」について考えてみようと思った次第である。

 

 対談ブログと違って、文章だけで読みづらいブログである。私的な国語の教科書として、何らかの成果をあげることを期待しつつ、当面は楽しみながら所感を綴っていこうと思う。