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少し田舎

 少し田舎、という雑な言葉が許されるなら、そう表現したい町がある。僕の地元だ。巨大なビルとうるさいネオンが支配する都会からは、電車で三十分。商店街がシャッターの色を隠さない程度にはさびれているが、子どもの色鮮やかな声はまだ聞こえる。図書館とコンビニエンスストアには人が集まり、整体には行列ができる。二十二年を過ごしたその町は、おそらく僕が生まれる前からこのような景色だったと思う。改札機しか進化していないのだろう。

 

 高校時代、野球部だった僕は、毎朝近所を走っていた。ランニングコースのクライマックスは土手沿いだった。春の桜は当たり前のように美しいが、葉桜もまた格別だった。大学に入り、その土手を通らなくなったが、今でも春には桜が、夏には葉桜が、その顔を並べているのだろう。いい土手だった。お花見をするためにわざわざ新宿に出る必要なんてないのに、金と時間に余裕ができたくらいで、僕は地元の土手を眺めることをしなくなってしまった。きっと茂木健一郎あたりが批判してくれるだろう。

 

 地元の静かな喫茶店でタバコを吸っていたら、母親に見つかったことがある。こっぴどく叱られ、という生ぬるい表現ではそのときの怒りの百分の一も伝わらない。家を追い出された。話し合いは(メールで)十日間に渡って続き、誕生日なんだから帰って来い、という何とも歯切れの悪い結末を迎えた。十日ぶりに見た「少し田舎」な地元は、呆れるほどに変わり映えしなかった。これが都会だったら、飲食店の一軒くらいは潰れていたのだろうか。「変わらない街並みが妙にやさしいよ」と葛飾ラプソディは唄っていたが、本当に「妙」なやさしさだった。

 

 郷愁というほど大げさな気持ちではない。そもそもまだここに住んでいるのだ。懐かしむより先にいつもの駅前が目に飛び込んでくる。やれやれ、とため息をつくが、何とも格好つかない。身の振り方を悩んでしまう。僕はこの少し田舎な町から何を貰ったのだろう。何かを貰っているはずなのだが、考えも及ばない。寄り添ってくれているという実感もわかない。ただただここに住んでいる。それでいいのだろうか。もちろん、そんな自問をする機会もない。

 

 唐突に時間を止める。僕の生活を切り取った無数のフィルムを並べてみる。そのうちの大半はこの町が背景になっているはずだ。ランニング中の高校球児。タバコを見つかった間抜けな二十一歳。ため息をついたいつもの自分。図書館、シャッター商店街、土手、葉桜、喫茶店、駅前――

 

 二十二歳、初冬。一万円を崩したくて、Suicaにチャージする。三千円。出てきたお釣りは千円札七枚だった。

「もしかしてこの少し田舎な町には、五千円札が存在しないのだろうか……」

 頭の中で呟いた究極的に無意味な言葉も、背景に広がるのは、少し田舎なこの町だった。

 小さな改札口は、多くも少なくもない人々の流れを、今日も静かに見守っている。