詳細は先程

童話(@tatanai_douwa)の詳細です

傘をさす

 クリスマスも近づいた頃、思い出したかのような雨が降った。無粋な表情をする空を拒絶する意思を、傘をさすことで表明する。濡れたら困るのは、濡れたら生きづらいからだろう。そう考えると、傘をさすことも「生きる」ことの一環なのかもしれない。

 新宿にて、友人と並んで歩く。この日も雨だった。椎名林檎の唄が聞こえる。直立不動のビルディング、行き交う人々。ビルは裸だが、人々はみな傘をさしていた。誰もかれもが濡れたくないのだ。奇妙な光景である。アフリカの砂漠で暮らす人が見たら鼻で笑ってしまうだろう。高度に文明化された街並みでも、傘だけは間抜けな表情で、街にその顔を敷く。

「いつから傘をさしてた?」

 ふと、友人が言った。その言葉の意味が分からなかったので、尋ねる。友人は続ける。

「傘を”さす”っていう言葉を、いつから使うようになった?」

 一瞬の沈黙が訪れたのち、はたと気づかされる。何てことない言葉。普段はその意味を考えることもしない。雨が降ったら自然と傘を「さす」のだ。でも、自分はなぜ傘を「さす」のかを知らない。友人の問いは、新宿の喧騒にかき消された。

 帰宅してから辞書をひく。ここで手が止まる。辞書もいつの間にか「ひく」ようになっていた。それはいつからだろう。ううむ、わからない。先へ進まない。

 

 今の自分は、様々な「動詞」を使いこなしている。傘はさせるし辞書もひける。文は綴れるし、約束は破れる。家でコーヒーを煎れ、パソコンを立ち上げ、文字を打つ。どれも自然にできるのに、その「動詞」をいつから自分の行動と繋いだのか。そこは一切分からない。分かろうともしていない。

 ようやく辞書をひいた。「差す」の意味はこうだ。

②物を上方または前方へ伸ばす。(広辞苑

 自分は傘を上方へ伸ばしていたのか。誰に教えられたのか、いつから知ったのか。何もかもが雲の中に隠れているが、そのようなことには一切立ち入らずに、今日も傘をさす。

 

 今日も生きる。