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相槌に成り下がった言葉

 恋についての様々を会話している男女。お互いの価値観を摺り寄せながら徐々に距離を縮めていくその様は、何とも微笑ましい。この間もカフェでカップルが第三者の恋愛模様について語っていた。その中で、男性が何気なく使った言葉に、何ともいえない違和感を抱いた。

「人それぞれだよねえ」

 文脈は忘れたが、その後も良好に会話は続いていたように記憶している。おそらく当人の間ではまったく記憶に残らないようなフレーズだろう。無価値、無意味の一言だ。

 

 何事も、人それぞれに決まっている。金子みすゞが何年も前に言ったように、この世は多様な価値観であふれている。「人それぞれ」だなんて、わざわざ言う必要のないことだ。しかし人は、会話の様々な場面で、そのパラグラフに終止符を打つかのように「人それぞれだよね」と呟く。

 どうもこれは「相槌」に似ているように思える。

「うんうん」「だよね」「わかる」「すごいな」といった相槌は、それ自体にユニークな意味があるわけではない。会話を円滑に進めるためのセンテンスであり、一種のレトリックだ。相槌が下手な人はそれだけで嫌われる。故に、人はこういった「意味のない言葉」を巧みに使い、人間関係を壊さないように奮闘する。

 

 気をつけなければいけないのは、他の相槌と違って「人それぞれだよねえ」が本来意味を持っている言葉であるということだ。当たり前のことだが、この言葉には「○○が人それそれである」という意見の表明、という意味、がある。(ややこしい。)当然のことながら、それが相槌に成り下がっているコンテクスト以外もこの世には存在する。

「人それぞれだよねえ」

「え、どういう意味?ちゃんと聞いてる?」

という場面も容易に想定されるのだ。言うなれば「相槌化のズレ」である。

 相槌化のズレは、本来コミュニケーションを円滑にするための道具であった相槌を、真逆のものにしてしまう。どんな相手に対しても相槌になると思いこむのはとても危険なのだ。最悪の場合「アイツは適当な奴だ」という評価を下される可能性もある。実際、何でもかんでも「人それぞれだよねえ」と言って憚らない人間を想像してみてほしい。友達になりたいだろうか。僕だったら合コンで隣の席にいるだけでも吐き気がする。

 

 「意味を持った言葉の相槌化」という概念は、いやらしい見方をするなら、怠惰に他ならない。対話をすることを放棄し、相槌を打つ。それでは人間関係は発展しないだろう。円滑に進めようとするまでは良い。行き過ぎてサボってしまうと、これは良くない。なるべく相槌に成り下がった言葉は口に出さない方が身のためだ。それこそ、コミュニケーションは「人それぞれ」なのだから。