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掛け声化した言葉

 相槌に成り下がった言葉という記事を書いた直後、運命的なエッセイに出会った。同じような感情を、自分より遥かに明晰な文章で綴られたそれは、著者の名前を「野矢茂樹」という。僕が敬愛する哲学者だ。エッセイ集『哲学な日々 考えさせない時代に抗して』より「掛け声化」と題された短いエッセイを引用しつつ、先の記事への補足をする。

 

 筆者は“考えるためには言葉がなければならない”という文で、そのエッセイをスタートさせた。曰く、思考は言葉によって成される。しかし、であるがゆえに、思考を停止させる言葉も存在する。僕が「相槌に成り下がった言葉」と表現したものと似ている。筆者はそれを“掛け声化する”と名付け、例に「わっしょい」「キャッチコピー」などを挙げていた。

 考えなければならない場面で、掛け声化した言葉が発せられると、受け手は途端に思考を停止させてしまうという。これは僕の記事で取り上げた「人それぞれだよねえ」にも同じことが言える。そこからさらに思考が発展する可能性がある局面で「人それぞれだよねえ」と言ってしまうことで、その会話は発展性を失う。

 その原因について野矢氏は“なんとなく気分が出ている”という筆者の軽妙な表現で以て示している。そう、そこなのだ。なんとなく気分が出ているからこそ、流されてしまう。流されるということは、思考が停止していることの証明に他ならない。野矢氏が挙げていた「だいじなのは物ではない、心なのだ」という「掛け声化した言葉」が如実に示すように、多くの人が反対すらしないことがその原因なのだ。

 ソクラテスは、意見と反対意見との対立によって思考の高みに到達することを「対話」と規定した。反対意見が一切出ないのは、対話をしないのと同義であるとすら思う。件の言葉たちが一番危険なのはそこだ。対話を無駄にしかねない。会話がその場限りの悦楽にとどまり、一切の発展を拒絶してしまう。つまらない世の中だ。

 

 野矢氏は、結部に“思考を停止させる言葉に対抗するには、やはり言葉しかない”と前置きした上で、“冷静で明晰な言葉を、私たちは手放してはならない”と力強く語ってくれた。冷静で明晰な言葉とは、つまり論理的で有意義な言葉である。このブログでは「論理的」「有意義」ともに様々な観点から、所感を述べていきたい。私たちが手放してはならない言葉を、手探りで獲得する旅を、今後も続けていこうと思う。