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童話(@tatanai_douwa)の詳細です

「収納して楽しむ」読書観

 自分ではぼんやりと「吸収するように読んでいる」と思っていた。読書観の話だ。かなりの速読ではあるが、読み終わった後にはメモが残るし、自分の中に蓄積されている感覚もある。しかし、こんな記事を読んで、少し思うところがあった。

hyohyosya.hatenablog.com

 ざっくり要約すれば「本をスピードラーニングのように読んでいた」ということなのだが、一見僕の読書と正反対な気がするようで、その実、似ているところも多いのだ。こちらの記事に刺激を受けたので、自分の読書について整理してみようと思う。

 

 本を読んで何かを吸収する、とはどういうことだろう。なかなかに抽象度の高い言葉なので、雰囲気に飲まれるように受け入れてしまいがちな「吸収」という表現を、分解してみようと思う。

 まず、本を読むときの姿勢だ。これは、いわゆる評論タイプ(新書や学術文庫、テキストなどを含む広い表現として)の本と、物語タイプの本を読むときとで、かなり異なる。物語タイプの本を読むときの話は後回しにして、最初に前者を分析してみる。

 読む前に目次を見る。そして、その本を読むに至った背景を思い返す。「あの本の参考文献として挙げられていたな」「学びたいこの学問についてのこういった立場の本だな」「初めて見る分野についての導入的な論文だ」など。これは収納する棚を選ぶ行為に近い。印鑑は通帳と同じスペースに入れたいし(それがセキュリティ的にどうとかいう話は置いておいて)パソコン周辺機器はまとめて収納したい(コードが絡まっていずれ面倒なことになるという話は置いておいて)のだ。今から読む本がどのような位置に収納されるのか、それを考えることは僕にとって、読書そのものよりも大切であることが多い。

 さて、収納するスペースの見当がついた。読み進める。いろいろな知識、見方、意見が出てくる。すべてを吸収しようとはしない。あかごひねひねさんのようにサッと流すことも多い。ただ、棚から漏れそうなものについては別である。ちょっと収納に困るもの、新しすぎてやり場に困る意見、別の収納ラックを買いたくなるような知識、そういったものだけはメモする。既存の棚に収まる限り、それはいつでも引き出して使えるが、そこからはみ出るようなものについては対処が必要だ。そのために「読書ノート」を用意している。余談だが、その程度の気構えでも既に187冊目である。とてもじゃないけどすべてをメモするなんてやってられない。

 もちろん、適宜、模様替えの必要が出てくる。ここの棚に収めていたこの知識は、どうやらこっちに入れた方が都合よさそうだ。ちょっとトイレにもリビングにあるアレと同じやつ置いておこう。そんな感じで思考の整理をする。先ほど少し述べた「初めて見る分野の本」を読んだときには、大規模な模様替えをすることが多い。逆に、今までもたくさん読んできた分野についての本は、収納棚を見誤ることすらほとんどない。人はこういった体験を「読書慣れ」と呼んでいるのだろう。

 ここまで書いて、あかごひねひねさんの「シャワーのように読む」という感覚を身近に感じるのだ。僕も彼のように「影響を受けやすい」タイプである。中学生のときにマルクスを読んで左に傾いたくらい単純な人間だ。その反省からか、いろいろな本(というよりいろいろな立場の本)を読むようにしている。TPP興国論とTPP反対論は同時に買った。まぁ、そのくらいの気構えなのだが、これは案外役に立つ。一冊に込める比重を軽くするというか、肩の力を抜くように読むことで、棚にも入れやすくなるし、バランスのよいインテリアが出来上がる。逆説的に聞こえるかもしれないが、「読まなければいけない」といった感覚も薄まるのだ。あかごひねひねさんはまた別の記事内で「読むべき」本と「おやつ」本について論じていたが、この「読むべき」が「おやつ」に変容していく感触がある。所詮インテリアだ。生活必需品じゃない。棚なんて気に食わなかったら捨てちゃっていいし、模様替えなんていつどこでやったって罰は当たらない。読む量が多くなればなるほど「生活必需品だからしっかり読まないと」という気分はなくなってくる。

 すべては自分を形作るインテリアだ。いろいろなものをバランスよく並べることに意義を感じるならそうすれば良いし、凝った棚にたくさんの物を詰め込みたかったらそうすれば良い。僕の読書観は、まったくもって「吸収する」などという哲学的な視座でなく、むしろ遊学的な立場に立っていることを再認識した。まとめると「収納して楽しむ」読書観だ。

 申し訳程度になってしまって恐縮だが、物語タイプの本。これはもう「好きなように」読んでいる。読書ノートに書くときもあれば、まったく書かないときもある。それこそ行水のように読む日もあれば、合間合間に読んで一週間かかった物語もある。トルストイなどは、あまりにくたびれすぎて「いつか使い道が分かるでしょう」という棚に入れて保管してある。棚に収納しない小説もある。忘れた短編集もある。何かしら蓄積されているだろう、そのように楽観視している。あかごひねひねさんは「感想を書く機会が多くなったこと」にも触れていたが、僕はあまり「小説の感想」を書かない。理由ははっきりしていないけれど、おそらく自分の内的な楽しみなのだろう。オススメしたい本もほとんどない。繰り返し読んだ数冊くらいだ。書評というものにも、ちょっとチャレンジしようと思った。あかごひねひねさんが読んでいた短編集にしようかな。こうして読みたい本について考える時間は、当たり前のように楽しい。どこまでも遊学、遊読である。