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レトリックの展望を夢見る

 認知言語学という学問がある。このブログで触れたかどうか忘れたが、簡単に説明すると、人間の「ものの捉え方」から言語を解明する学問だ。発展途上の領域なので、今でも続々と論文が登場しては、議論が活発に起こっている。このブログでもいずれ、その最前線の議論も取り上げながら、その実態に迫っていくことを試みるつもりである。

 さて、認知言語学の詳細については別の機会に筆を譲るとして、今回は僕が「現時点で」思っているレトリックの展望について書こうと思う。短いので、しばしお付き合いを。

 レトリックは、その昔、人をたぶらかす弁論術として名を馳せた。悪名高いレトリックは多くの哲学者から嫌われた。かの有名なプラトンもレトリックは「化粧術」だとしてその実態を大いに批判していた始末である。言うまでもなくレトリックは〈弁論の技術〉であった。また並行して、文学で使用されるレトリックは、〈芸術的表現の技術〉として扱われた。卓抜した比喩表現などがそれである。

 歴史はしばらく変わらなかった。レトリックはふたつの〈技術〉的な面だけを取り上げられ、ある意味では嫌われ、ある意味では好まれた。そんな中、認知言語学の発端を担った数々の言語学者や哲学者の中から、レトリックの真価について迫る研究が出てきた。それまでの〈技術〉的なレトリックからは想像もつかない、レトリックの真なる意義。それは〈発見的認識の造形〉にある、と。

 人は体験をする。それを文章に書きたくなる。フィクションで、日記で、紀行文で、論述で。その文章には、言葉が使われる。あなたの日記を見返してみよう。SNSを読み返してみよう。日本語が並んでいるはずだ。しかしそれは「辞書」に載っている「正式な日本語」ばかりで書かれたものではないはずだ。そこにはいろいろなレトリックが使用されているのが分かるだろう。レトリックとは、言い換えれば「正式な日本語からの逸脱」である。

 例を挙げる。川端康成は雪国の冒頭で「夜の底が白くなった」と書いた。これは、どんな辞書を見ても載っていない言葉だ。それなのに、川端はこの文章を「書けた」。もちろん天才的な文学センスをもってしての仕事なのには間違いないが、辞書に倣って書いているだけでは到底生まれなかった文章だろう。逆に言えば、僕ら人間の〈認識〉は、辞書的で正式な日本語だけでは言い表せないのだ。

 恋をした。そのときの気持ち(=認識)をドンピシャに表してくれる日本語は、広辞苑に載っているだろうか。載っていなければ、レトリックを使う。比喩を使う。誇張してみる。倒置する。あの手この手で自分の〈認識〉を切り取る。そのときまさに使用するのが、彼の第三の役割、〈発見的認識の造形〉の力だ。

 というように、認知言語学においてレトリックは、人間の認識そのものとして扱われる。決して技術ではない。その方向で、様々な研究結果が出ている。まぁ、そのあたりの詳細はおいおい。

 翻って未来。僕は、どうやらこのレトリックが〈技術〉に舞い戻ると考えている。認識としてのレトリックは、さらに発展するだろう。優れた書物があふれ出て来て、僕らを魅了してくれる。その先に見えるものは何か。

 僕らは文章を書く必要がある。ときには論理的に、ときには芸術的に。コミュニケーションを言語で行う動物の宿命だ。そんな僕らが、〈技術〉としてのレトリックを手放すとは思えない。ほら、もう〈技術〉なんていう言葉を使われた時点で目が泳いでしまう。知りたくなってしまう。人間は技術を獲得して栄華を極めた。言語に関する技術は、多くの人を魅了してきた。事実、古代ギリシャにおいてレトリックは「強者の証」だったし、今でも必修させる国もある。どうだろう。このまま〈発見的認識の造形〉という点のみが語られていくだろうか。

 認識を発見するために、レトリックが果たす役割が大きいのなら、それを恣意的に使えれば、そう、ちょうどアクセルを踏むようにレトリックを使えれば、新たな認識を思うままに獲得することもできるのではないか。〈認識の発見を促す技術〉としてのレトリックを想像すると、ワクワクする。レトリックに第四の意義を見出してみたいが、それにはまだ勉強不足だ。今は夢見ておくだけにとどめる。