詳細は先程

童話(@tatanai_douwa)の詳細です

70セントの煙草を巡る問題

 アメリカの煙草店で70セントの煙草を10ドル札で買った。日本でなら、引き算をして「9ドル30セント」のお釣りを渡すだろう。しかし外国では普通引き算をせずに「10ドル札に対しては10ドルのものを渡す」というふうに考える。まず70セントの煙草を渡し、次に10セント硬貨を1枚ずつ出しながら「80、90、1ドル」と数える。それから1ドル札を「2,3,……」と、10ドルになるまで渡す。

 店番の女の子は手順通り煙草と10セント硬貨を3枚出した。「これで1ドル。OK?」ここまでは良かった。それから1ドル札を出しながら「2,3,……」と数えていったのだが、どういうわけかカウントは9でストップしてしまった。1ドル足りないことを指摘すると、彼女は「さっきこれで1ドルって言ったでしょう。それと9を足して10ドルよ」という返答。

 さて、この明らかに間違っている店番の女の子に対し、皆さんならどういう対応をするだろうか。是非難局をうまく切り抜けてほしい。

 

 正しいことを正しい理屈で説明しても、なかなか納得してもらいないことはしばしばある。説明の目標が「相手に分かってもらう」ことであるなら、偏屈な哲学者よりも、上に挙げた店番の女の子の方が、手ごわい敵だろう。

 知らないことを分からせるのは至難の業だ。小学校一年生に微分積分を教えられないのと同じである。いくら明快で正しい説明をしても、掛け算すら知らない彼らに微積を分からせるのは無理だ。

 大切なのは「相手が分かっていること」を見つけることである。小学校一年生なら、足し算を分かっているだろう。ならば、足し算を使って掛け算を教える。理解してもらったら、今度は四則演算を教える。Xという概念を導入する。変数が使いこなせるようになったら、ようやく微積を分かってもらう下地が整ったと言える。もちろんこれには何年も要するが、こういった手順を踏むことは絶対に必要なのだ。「説明」は、「相手が分かっていること」とリンクさせないと成功しない。掛け算は足し算を媒介して理解されるのだ。

 問題の事例における「説明」も同様である。「店番の女の子が分かっていること」を媒介させない説明は、徒労に終わる。相撲を取りたいなら、相手の土俵に上がらないといけないのだ。この姿勢をとるなら、以下のような説明は不正解であることが分かる。

・9と1を足すのは道理に合わない

・10ドルで70セントの買い物をしたのにお釣りが9ドル以下であるわけがない

・1ドルを二重に数えてしまっている

これらはすべて「自分の土俵」で行ってしまっている説明である。彼女には伝わらない。「知らないわよ、お釣りはこう渡すものなのよ」と言われて終わりだ。

 繰り返すが、正しい説明が必要なのではない。相手が分かっていることに寄り添った対応が必要なのだ。そこで、彼女の実績を見てみよう。

 計算が弱い彼女は、お釣りの渡し方(10ドルには10ドル分のものを渡す)だけは心得ている。実際に、70セントの煙草に対し30セントを出すところまでは完璧だったのだ。つまり、1ドルに対する取引は出来る。これを利用しよう。

 まず、10ドルを1ドル札10枚に両替してもらう。商品が関わらないので容易にできるはずだ。そうしてから、1ドルで煙草を購入する。どうだろう。取引が成功するのは目に見えているではないか。

 困った時ほど「相手が分かっていること」に目を向けてみよう。自分の土俵で無理やり相撲を取ろうとするのは、賢い姿勢ではない。この示唆的な事例は、何とニューヨークでの実話らしい。こちらの本に詳細がある。興味のある方は読んでみることをオススメする。詭弁と強弁(店番の女の子)に慣れるための格好の教材だ。

 

詭弁論理学 (中公新書 (448))

詭弁論理学 (中公新書 (448))