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新宿、昼4時間、3000円

 居酒屋で缶ビールが出てきたらどう思うだろう。ビール党の人は目を真っ赤にして怒るはずだ。ビール党でなくても少しげんなりする。それほど生のジョッキが持つ魅力は凄いし、缶ビールはどうしたって味も雰囲気も劣る家庭酒という印象が強い。
 しかしどうだろう。浜辺でしこたま汗を流したあと買ってきた缶ビールを喉で飲む。ここでジョッキを欲しがる人は少ないのではないか。シチュエーションによっては缶ビールも十分賞味に値する酒になりえるし、そのような状況をうまく作ってやることこそがコストパフォーマンスであると考える。
 限られた金額で最高の時間を過ごす。おおむね世に出回る節約本やグルメ誌はそのような方向性で話を進めている。金と時間は無限ではない。それを有効活用するのは、生き延びる意味でも「生きる」意味でも必要不可欠のスキルである。金と時間の有効活用について考えるのはとても有意義だ。
 新宿で缶ビールを堂々と出す店をここ以外に知らない。いわもとQ、蕎麦のチェーン店だ。チェーン店の蕎麦と聞いて思い浮かべる味があるとしたら、その数倍のクオリティで出てくる新宿屈指の蕎麦屋。割烹と遜色ないレベルと言うと大げさだが、その味は蕎麦好きをもうならせるほど。席が空いていれば座ってゆっくりと楽しめる。ピーク時を外せば天ぷらも揚げたてなので非常に満足度が高い。この店で出てくるのが、何を隠そう前述した缶ビール。これを思いっきり楽しむための新宿3時間3000円プランを考えてみようと思う。
 テレ東の深夜で絶賛放映中の『昼のセント酒』は、男が昼から銭湯に行って風呂上りに美味しいお酒と食事を楽しむだけの享楽的なドラマだ。内容はさておき、この「銭湯からのお酒」という贅沢は、考えただけで食指が動く。しかし都心には昼からやっている銭湯が少ない。安いところはどこも15時からで、スーパー銭湯となると長居を想定しているので何だかんだ2000円くらいになってしまう。さっと汗を流して美味しいお酒につなげる銭湯を探せるかどうかが『昼のセント酒』のカギとなる。
 新宿区歌舞伎町東通り、いわもとQが店を構えるそのこじんまりした通りには、2時間1100円という良心的な価格で汗を流せる岩盤浴が存在する。その名はOSSO。飲み歩いて深夜に利用するイメージが強い繁華街のサウナだが、ここは昼からも利用できる。昼はそれなりに空いているので居心地が良い。汗を流した後は目の前にいわもとQがある。好都合にもほどがある。
 流す汗をかくには最適なのが、東通りを抜けてホテル街へと入ったさらに先にあるバッティングセンター。1000円も出せば筋肉痛になるくらいバッティングを楽しめる。まずはここをスタート地点にしよう。ひと昔前はサラリーマンのストレス解消と言えばバッティングセンターだった。UNISON SQUARE GARDENのシュガーソングとビターステップのPVでも失恋した女の子がバッティングセンターに行くシーンがある。山崎まさよしの曲の中にはがっつりバッセンのロマンについて歌ったものまである。困ったらバッティングセンターに行くべきなのだ。ポコンポコンと軟式球を打っていると、不思議と気分が軽くなるのを感じる。
 さて、バッティングセンターから岩盤浴へと接続し、ゆったりと汗を流したら、ようやくこの休日のメインイベントである。いわもとQにたどり着いたら、まずは乾いた喉を潤したい。缶ビールと好きな蕎麦を食券で頼む。席を確保し、缶ビールと冷えたコップを受け取ろう。銘柄はキリンの一番搾り。手酌でうまく注いだら、蕎麦を待っている間に勢いよく飲み干す。
 爽快感が全身を駆け巡る。バッティングセンターで疲労した手足にアルコールが巡る。居酒屋で飲むジョッキの何倍も美味しいドリンクがそこにはある。
 蕎麦が茹で上がったら、喉に残った苦味を洗い流すように一気に啜る。お腹と心が満たされていく。コシの強い更科蕎麦は揚げたての天ぷらともよく合う。ビールと合わせても1000円弱。これほどコストパフォーマンスの良い蕎麦は他では味わえない。
 そのまま繁華街に繰り出すもよし、まっすぐ家に帰って休日の残りをのんびり過ごすもよし。3か所で3000円の新宿缶ビール旅の終わりは、昼に似つかわしくないネオンが見届けてくれる。

反義語発見ゲーム「喫茶店」

 絶対に彼女なんて作らないと宣っていた友人が恋人とのツーショットをTwitterにアップしたとき、周りの人は口々に「矛盾しているぞ!」と文句を言った。その気持ちは分かる。しかし、その発言に大きな違和感を抱いた。
 厳密にいえば、それは矛盾ではない。矛盾とは、論理学的には「A is not A」という状態を指す。友人の言動は単に「一貫性がない」だけであって、矛盾ではない。野暮なことを言うようだが、この世は矛盾という言葉を乱用しすぎだと感じる。
 同じように、対義語という言葉の乱用っぷりには思わず目を覆ってしまう。対義語とは、Aにおける非Aを指す用語だ。つまり、両者が完全に矛盾する対となっている言葉同士を指す。その定義に従えば、嬉しいの対義語は悲しいではない。非嬉しい=嬉しくないこそが対義語である。
 しかし、これを現実で流用することにあまり意味を感じられないのも事実だ。嬉しいの対義語は事実上「悲しい」であり、そう考えた方が自然なのだ。ここで、こういった定義を緩めた「対義語」を、レトリック研究の第一人者である佐藤信夫氏にならって、「反義語」と表現し、ここでは反義語について考察することにする。


 判定基準をどう設定するかによって様々な対立軸を考えることができる。これこそが反義語の特徴である。ツイートでも言ったが、人間の反義語として考えられるものだけで機械、自然、動物、神、と枚挙に暇がない。当然、新たな判断基準が生まれれば、新たな反義語が生まれる。月とスッポンを反義語として考えた昔の人は、決して辞書的な意味での対義語としてこれらを並べたわけではない。また、現代的な反義語の例として肉食系男子と草食系男子を挙げられない人はいないだろう。これらは発見した人によって設定された新たな判断基準と言える。
 言葉に対して、新たな判断基準を設ける。言い換えれば、その言葉の属性や性質、特徴といった部分に、新たな視点を介在させる。こうしたプロセスを踏むことで、今まで反義語として考えられてこなかった言葉同士を、新たに「反義語認定」することができる。こうした観点から、Twitter上で、喫茶店の反義語をアンケートしてみた。以下、結果から分かることを述べていく。


 有効回答数は本日正午の時点で38だった。回答のジャンルを大まかに分けると「飲食店」「施設(飲食店以外)」「物体」「その他」となった。回答が複数寄せられたものに「自宅(自室)3」「ファミレス2」「給湯室2」があったが、それ以外はすべて別の言葉となった。この点、喫茶店の反義語がいかに多くの判断基準によって考えられるかの証左となっている。
 グループ1、飲食店に含まれる回答を順不同に並べる。立ち食い蕎麦屋、ファミレス、牛丼屋、立ち呑み屋、居酒屋、キャバクラ、スタバ。この中でも目を引くのはスタバだろう。言うまでもなくスタバは喫茶店である。喫茶店の反義語として喫茶店があがるという点については後で詳細に検討する。立食形式の飲食店が複数挙がったのは、喫茶店が「座ってゆっくりする場所」だからだろうか。反義語を挙げてもらうことで、喫茶店のどこに重きを置いているのか、つまりどこを判断基準にしているのか、それが見てとれる。
 グループ2、飲食店以外の施設。これは回答数が一番多かった。コンビナート、独居房、公園のベンチ、給湯室、公衆便所、ボクシングジム、会社、給水所、自室、ディスコ、ラブホ、パチンコ屋、ゴミ捨て場、トイレ、コーヒー農園、コンビニ、旦那の実家、禅寺。特徴的なものが多く、ひとまとめにして論じるのに苦労する。しかしやはり共通するものに「騒がしい」「汚い」といった要素がある。飲食の要素を抜いたことでより対極に位置している点も面白い。判断基準に「飲食物を提供する」という観点を設けたことに由来するだろう。
 グループ3、物体。形あるものをあげた例があった。原発、女性、江頭2:50、尿瓶、膿盆。ここまでくると何を判断基準にしたかいささか読み取りづらくなる。尿瓶は面白い。喫茶店との共通点は「液体を扱う」というただ一点だろうか。
 グループ4、概念。Twitter、ライブフェス、井戸端会議、入院。形すら失ったものの、グループ3よりは判断基準が分かりやすい。Twitterは「話をする場所」という観点から、三次元と二次元という対立軸を設けて、反義語へと位置付けている。ライブフェスはさらに「一方的に歌を聴く」という対立軸を加えている。秀逸な例示である。


 こうしてみてみると、どれも「共通点」を見つけることから出発していることが分かる。反義語は実は同義語である、という方向へと議論は進んでいくだろう。何かしらの共通点があるからこそ、反義語としての説得力が生まれるのだ。
 給湯室を取り上げてみよう。給湯室は、喫茶店と同じで飲料、特にコーヒーを淹れる場所だという認識がある。この共通点こそが、給湯室を反義語として挙げるに至る理由となっている。相違点は「サービスとして提供されるかどうか」というところだ。この判断基準によって、喫茶店と給湯室というふたつの言葉は対極へと位置付けられる。
 スタバはどうか。喫茶店とスタバの共通点はあまりにも多い。というより、喫茶店という集合の中にスタバが内包されているといった方が正しいだろう。しかし、ここでは喫茶店を「落ち着いた場所」という判断基準によって、スタバ(落ち着かない場所)の対極へと位置付けた。スタバの客層と、いわゆる「喫茶店」の客層を見比べたときにも、何か感じることがあったのだろう。奇妙に納得させられてしまう面白い例だ。例題が「純喫茶」だとしたら、さらに反義語らしさが高まる気がする。
 喫茶店の要素を余すところなく抜き出し、それらに対応するような例を考える。反義語発見ゲームの面白さはそこにある。喫茶店の要素を抜き出すという行為は、喫茶店を見つめなおすという思考に繋がる。抜き出された要素が人それぞれ違うため、反義語として挙げられるものも自然と多様性を帯びていく。ひとつひとつについて詳細に立ち入る余裕はないが、考える意義は十分に見出してもらえることだろう。


 もともとこの対義語の議論の自分の中での出発点は「緩叙法」と言われるレトリックからだった。その研究の中で対義語の重要性の指摘が為されていたため、戯れにTwitterで募ったところ、想像以上に面白い例が集まった次第である。いずれ場所を改めて「緩叙法」の認識自体の議論をしてみたいが、その際にはまたTwitterを利用して例を集めてみようと思う。ご協力してくださった皆さん、ありがとうございました。

一夜明けて

 火事という文字を見たときに、人は即座に「すべてを失うかもしれない」という想像を働かせる。それほどまでに火事の恐ろしさは沁みついている。浸透度は戦争の比ではない。僕も例外ではなかった。いろいろ投げだして駆けつけたのだった。

 新宿ゴールデン街。ここにひっそりと構えるひとつの店がある。毎週のように飲ませていただいている店だ。常連などと言うつもりはない。そもそも、この場所に常連や行きつけといった概念はないように思える。気が向いたときに顔を出し、気の向くままにお酒を飲み、気の済むまで話す。ときには友達を連れていき、その空気感を楽しんでもらう。特別な感覚ではない。たまたまその場所が性に合っただけの話だ。そんなサードプレイスでの、何てことない一幕。

 火はその店の三軒隣で鎮まった。ホッと胸を撫で下ろす心の余裕はない。消防法や建築基準法などを引き合いに出すまでもなく、ゴールデン街での大規模な火事は即座に「立ち退き」という想像を誘発する。これからどうなるのだろうという不安を抱えながら、客の分際で図々しいながらも、店の復旧活動の手伝いをした。

 まず驚いたのは報道陣の数。インタビューだけで十回は申し込まれた。店主などその倍は軽く超えていたと思う。ワンセグでニュースを見ると、どの局も火事で持ちきりだった。ちらほらと国際局の姿も見える。世間の関心の高さの現れなのか、はたまた好奇心に文字通り火をつけたのか。不謹慎な想像を巡らせながら、それ以上に不謹慎な煙草に火をつけ、店主と話す。

 最初の懸念はその日の営業だった。鎮火したのが17時前後。店主は18時半には店を開ける気でいた。しかし、系列店こそ無事だったものの、彼の本店は配線の関係で停電している。電力会社の話によると、どうやら火で電線が切れていて、代わりの電線を用意するのに一日はかかるという。懐中電灯での営業が余儀なくされた。

 飲食店が暗いことはさほど問題ではない。しかし、氷が溶けてしまうのは厄介だ。ビール以外のお酒は氷を必要とする。製氷機を確認すると、春にそぐわない涼しさのおかげで、溶けるには時間がかかりそうだった。近くにある馴染みの定食屋と話し、もし氷が足りなくなったら援助してもらう約束をする。

 店の前はちょうど火事現場が見渡せる唯一の場所だったため、報道陣がカメラを構えてごった返していた。規制線も店の目の前。これでは入るのに一苦労で、当分は足止めを食らった。知り合いの店で待機する。三階に上がらせてもらうと、生々しい焦げ跡が眼前に広がる。鼻につく匂いがその凄惨さを物語っていた。

 徐々に野次馬が引いてきたので、懐中電灯を買いにコンビニを回る。なかなか見つからなかったが、四軒目でどうにかふたつ手に入れた。店に戻って設置すると、存外に明るい。何とか営業ができそうだと、初めて安心した。懐中電灯にビニール袋をかぶせ、乱反射を利用してさらに明るさを確保する。伊東家の食卓が役に立ったのは最初で最後かもしれない。

 店には続々と人が来た。すべて店主の知り合いである。酒屋さん、友人、系列店の従業員、元従業員、元従業員の夫、記者。店は奇妙な賑わいを見せていた。様々な思いが渦巻く。しかしもとよりここはゴールデン街である。様々な思いが渦巻くことには慣れていた。いつもよりちょっと暗い店内で、いつもと同じようにお酒を飲む。少しでも助けたいという気持ちでお金を落とした、わけではなく、単に疲れて喉が渇いていただけだった。互助精神などは後からついてくるものである。頭より体が正直に反応していた。

 落ち着いた時分、友人が来てくれた。第一報をくれたのは彼女だった。ニュースを見ている時間帯ではなかったので、早めに駆けつけることができたのは彼女のおかげである。お礼を言い、他愛もない話をした。いつもの光景だった。

 不謹慎なことは承知で断言する。ゴールデン街はいつもの光景だった。肴が火事の話になっただけだ。薄っぺらい慰めを口にする人などいない。頭より体がそこへ向かわせる。メディアは「人のつながり」といった綺麗な言葉でそれをまとめたが、実態はそうではない。結局、飲みたい人間の集まりなのだ。馴染んだ街で火事が起きたらそわそわしてしまうだけなのだ。いつものように飲めなくなるのが怖いのだ。それだけの理由で、火事が起きた数時間後だというのに、この街は呑兵衛で溢れかえっていた。

 僕が目にしたのは、ゴールデン街のほんの一画の、紛れもないリアルだった。立ち会えたことに感謝している。火事くらいでは揺るがない、その不謹慎なほどにたくましい精神力に、大木に寄りかかるような安心感を抱いた。

 いつもと変わらない月夜のことである。

本音

  先日、中学校の同級生と飲んだ。お互いにとって初めてのサシ飲みだった。会を持ちかけたのは僕である。1か月前に開催された同窓会で8年ぶりに再会した際にあまり話せなかったのを悔やんでいた。彼が近く海外へと発ってしまうこともあり、その前に話しておきたいと思ったのだ。 
    新宿区役所前で待ち合わせた。彼は相変わらずホストのような身なりで、それに少しホッとしたのを覚えている。歓楽街を抜け、落ち着いた居酒屋を目指す。それなりに緊張しながら、話したいことを頭の中でまとめていた。無数のネオンが視界に飛び込んでくる。その端で、性感マッサージ店の置き看板が傾いていた。
 座ると同時に、僕と彼は煙草を取り出した。薄暗い店内で煙草をくゆらせる。彼は昔から喫煙者のようで、手つきは慣れていた。慣れを通り越して、飽きているようにも見えた。思わず口元がほころんでしまう。喫煙に飽きる22歳という同級生を、妙に懐かしく感じながらも、それを打ち消すほどの新鮮さで以って眺める。ホームルームではなく居酒屋で、弁当の代わりに酒とツマミが出てくる。サラダを取り分ける必要もなかった中学時代は、やはりとうに昔の光景なのだ。
 当たり障りのない話はしなかった。自己紹介も抜きである。どちらかが話すたびに、もう一方が反応する。いたって普通の会話だが、そこには建前も遠慮もなく、ただただ心地よい言葉だけがあった。こういう話ができる友人が何人いるだろう。頭の中で指を折るが、左手は登場しない。
 本音とは何だろう。本当の気持ちというものが存在するのなら話は簡単で、それを言葉にするだけでいい。しかし、本当の気持ちとやらは頭をもたげることなく過ぎていくのが日常、いや、それこそが、日常である。何が本当なのか考える場面は存外に少ない。その場を楽しく切り抜けるためには、平気で嘘をつくし、笑顔を作る。それが人間だし、人間らしいコミュニケーションだ。その人に見せる自分は、紛れもなく「見せたい自分」なのだ。責められる謂れはないだろう。
 それでも。
 居酒屋を出る。二軒目は、さらに薄暗さを増したバーだ。膝を突き合わせ、尽きない話をし続ける。次第に奇妙な感覚に陥る。見せたい自分はどこにいったのだろうか。そういえば先ほどから輪郭があいまいになっていた。脳でなく、肚の底から言葉が出てくる。見せたい自分はどこだろう。考える隙もなく、さらに言葉が出てくる。笑う。ため息をつく。感心する。おかしい。コミュニケーションはどうした。
 気づく。本当の気持ちなんて、やはりないのだろう。しかし、書類が見つからないほど散らかった部屋も、それはそれでくつろげる。くつろいだ自分がいるとき、それが本音だと言い張りたい自分も、同時に見つかる。
 帰り道、性感マッサージの置き看板がまっすぐに戻っていたのを、やけに覚えている。改札口で、どちらからともなく発せられた「また」は、そう遠くないうちに訪れるだろう。そんな予感を抱きながら、山手線の終電に飛び乗った。