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「ゆるやかな嫌煙」に対する喫煙者からのアンサー

 友人にあかごひねひね(@akagohinehine)という人物がいる。彼とは何度か食事をともにし、会話を楽しんだ。Twitterアカウントの立ち位置や境遇、普段考えていることなどが似通っていて、距離を縮めるに至った。

 そんな彼がこのたび「ゆるやかな嫌煙」という記事を彼の所属している飄々舎のブログに投稿していた。経緯を軽く説明する。彼はこの記事をずいぶん前に書いて温めていたようなのだが、それについてTwitterで「嫌煙についての記事を書いたけど怖くてアップできずにいる」と嘆いていた。それを目にした僕が「怖くないよ!」とけしかけたのだ。彼がブログ内で言っているように、嫌煙に関する話題になると喫煙者も非喫煙者も熱くなる傾向にある。彼はそれを危惧していたのだ。しかし、僕は喫煙者だが、この傾向とはあまり馴染んでいない。嫌煙に関する話題についても、割とフラットに接していたつもりである。この思い込みは、彼の記事を読んで少し揺らいだ(反省したと言ってもいい)のだが、それについては後述する。

 

 まず僕の喫煙に対する意見を述べる。前述したとおり僕は喫煙者だ。煙草を愛している。嫌いなわけがない。しかし、嫌煙家に対して「どうして嫌いなの?」という疑問を抱いたことは一度もない。煙草の煙やにおいがキツいことは重々承知である。嫌煙家に対する理解と言い換えるのは少々烏滸がましいが、フラットであると述べた理由はここにある。煙草が嗜好品で、迷惑な煙と臭いを発するものである以上、僕はその煙草自体に盲目でありたくない。そういった思いを常に抱いて過ごしている。

 では実生活においてどういう振る舞いをしているか。幸か不幸か、あからさまな嫌煙家に出会うことはほとんどないが、友人の多くは非喫煙者だ。あかごひねひねさんのように「緩やかな嫌煙家」も多いだろう。そういう人と喫煙が可能な場所に行くとする。僕は一言「煙苦手じゃない?」と訊く。このとき、正直に言って「苦手だ」という返答を想定していない。彼の言葉を借りるなら“決して好きではないけれどあなたに対する好意と天秤にかけるとわざわざ咎めるほどではない”という思考をしてくれることを想定している。訊く前から「大丈夫だよ」という返答をすることを期待しているのだ。ズルいなあ。アンフェアだ。つくづくそう思うが、こればっかりは仕方ない。その代わりと言ってはなんだが、僕は友人が目の前でチーズを食べても何も言わないで我慢する。(僕はチーズの臭いが大嫌いで、吐き気を催すこともある。)

 

 さて、本論に移る。この記事のテーマは「アンサー」である。アンサーというからには、彼の記事の主張を取り出さないといけない。簡潔にまとめようと思う。

 非喫煙者の彼は、煙草が「緩やかに嫌い」である。我慢出来ないほどでもないので友人が吸う分には全く構わない。しかし、その意思表明はあまり理解されない。持って生まれたものと違い、喫煙が吸うか吸わないかという二元的な性格を持つゆえに、煙草と喫煙者のパーソナリティは融合しきれていない。喫煙者は非喫煙者からの嫌煙宣言を受け止めきれず、両立は妨げられる。彼は、煙草が好きではないと表明することと、友人の喫煙の容認を両立する術を探った結果、喫煙者に「穏便に開き直ること」を期待するに至った。煙草嫌いの全員が喫煙者の敵なわけではない。喫煙者はそれを理解し、余裕を持つべきなのだ。彼はそう締めくくった。

 「喫煙」という行為が持つ二元性と、喫煙者が嫌煙家の意見に目くじらを立てる現状を結び付けたうえで、嫌煙家の意見というものを柔らかく再定義し、解決策(喫煙者側の折り合いのつけ方)を提示している。この記事は、性格的にまとめるなら「穏やかにいこうぜ」という一言である。喫煙者を屈服させようという意思も、非喫煙者の合理性を主張しようという意思も見受けられない。おそらく彼には「煙草が嫌いなことくらいもっと気軽に主張させてくれよ」という思いがあるのだろう。

 

 非喫煙者からのラブレターである。これに対して喫煙者である僕は、まず「今までごめんな」というアンサーをしなければならない。自然と息苦しい思いをさせていたのだ。先ほど例に挙げたチーズの件。少年時代、毎日のように遊びに行ったMくんの家では、お菓子に必ず「カールのチーズ味」が出てきた。地獄のゴミ捨て場のような臭いがする物質を眺めながら、僕は「お腹が空いていない」と嘘を吐き続けた。チーズが嫌いであると表明した末の人間関係が怖かったのだ。今思うとばかばかしいのだが、喫煙者は同じことを非喫煙者に強いている。今までごめんな。

 彼の提示した解決策は、喫煙者の意識改革だ。煙草が嫌いな友人は、煙草を吸う自分を嫌っているのではない。煙草を否定されたときに怒ったり意気消沈したりすることのナンセンスさを主張した上で、そんなに真面目に取り合うなよ、好きなんだったら諦めろよ、そう肩を叩いてくれた。大いに反省し、また勇気づけられた。

 

 僕はチーズが嫌いだし、君は煙草が嫌い。何だよ、目の前でそんなもん楽しむなよな。しょうがねえじゃん、好きなんだから。好きなように好きなものを楽しみ、面白い話をする。そんな軽薄で素敵な間柄に、善悪の概念を持ち込むのはナンセンスだよな。差し出された手へのアンサーは、煙草臭い手での固い握手にしようと思う。