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「つまずいた数だけ大人になれる」は今後一生使うな

 名言、と呼ばれる言葉がある。偉大な哲学者や第一線で活躍するスポーツ選手、はたまた人気の俳優など、影響力のある人間が言った「名言」は、多くの人の心を揺さぶってきた。ためしに名言botのフォロワー数を見てみると、軒並み10万超えである。いかに大衆が「名言」を求めているか、見て取れる。

 名言が効用を発揮することに、僕はずっと違和感を抱いてきた。「名言で元気づけられた」なんてパラレルワールドの世界の出来事にしか思えない。しかし、ただ嫌っているだけではアンチ名言の宗教家である。ここでは、特に嫌いな名言「つまずいた数だけ大人になれる」を取り上げ、その言葉の稚拙さと欠陥を論じていこうと思う。

 

 この名言が想定している人間を、簡単に2タイプに分類しよう。挑戦してつまずくことを恐れているAくん、挑戦してつまずいて落ち込んでいるBくんだ。Aくんには「恐れるな、挑戦しろ」という意味合いを、Bくんには「元気出せよ、大人になれただろ」という意味合いを持って、この名言は効用を発揮する(ということになっている)。

 もうどの角度から見てもナンセンスな名言なのだが、諦めずに解体していこう。

 まずAくんに向けられた場合。挑戦の内容がいかなるものであったとしても、それが成功するか失敗するかは極めて不安定な未来であり、予測不可能性を孕んでいる。この前提があるからこそ、挑戦しようとする人は「迷う」のだ。様々な未来を想像する。その中にはみじめに挫折する映像もある。どうしよう、不安だ。踏み込むべきか、どうなのか。

 そんな迷えるチャレンジャーに必要な言葉があるとすれば、正確なデータくらいだ。予測というのは、正確なデータを積み重ねることで確実性を増す。もちろん前述した通り、100%にはならない。しかし、経済の未来を主張する学者が膨大なデータを示すように、気象予報士が最先端の技術と学術で明日の天気を予想するように、道端の胡散臭い占い師ですら分厚い本を携えているように、データはそれが正確である(と信じられるだけの裏付けがある)ならば、未来の姿を担保するものとなる。Aくんが知らないであろう情報なら、その裏付けをきちんと説明した上で、伝えてあげるべきだろう。それによってAくんの決断はより「納得できる」ものとなるかもしれない。

 翻って、当該名言はどうか。何らデータ性がない。ましてや「大人」などという漠然とした表現でお茶を濁そうとする、迷惑で勝手な発言だ。仮に「大人」が「これからの挑戦における成功率が高くなる」という意味だとしても、それが保証される失敗など限られている。例えば数々の検証可能なデータをもってして行った挑戦において、失敗し、それらの再検証を行った上で同じ挑戦をするなど、そういった限定的場面ならば「成功率は高くなる」かもしれない。しかし、ここでAくんに向けられたこの名言はそのような背景には鈍感である。どのようにつまずいてどのように成功率が高くなるのか、そういった側面に寄り添った論理がない。この名言を見て「よし、やろう!」となったところで、結局無駄な失敗をして無駄に落ち込むだけだ。何故なら、盲目な名言によって突き動かされるような浅い挑戦に、検証可能性は無いに等しいと言えるからだ。

 さて、言い尽くしてはいないが、Bくんのケースに移る。Bくんは残念ながら挑戦をして失敗した。期待を持って転職したらブラックだったり、自費出版したら売れなかったり、告白したらフラれた。よくあるBくんの挫折は、不安感を呼び、臆病になっている。このBくんに向けられた当該名言の「恐ろしさ」を分析しよう。

 Bくんは、失敗した。それは動かせない事実だ。変化が期待できるのは未来だけである。その未来において、行動主体となるBくんはいま、臆病になっている。過去がチラつくからだ。何とか元気づけたい名言の話者は、「大人になれたんだから元気出せ」と言う。はっきり言って、話を聴いているのか疑問である。百歩譲って、仮にこの挫折体験が「大人になる」に十分なものだったとして、元気がないこととは無関係である。過去を引きずっているから落ち込んでいるのだ。その映像を想像してあげられるくらいに敏感な話者なら、その過去に「大人になるための経験だった」という無価値な情報を見出して指摘することは、至極無駄であることに気づくだろう。

 先ほど「大人」の意味を最大限好意的に解釈して「これからの挑戦における成功率が高くなる」と言い換えた。加えてそれは、きわめて限定的な場面での、検証可能性のあるデータが十分に揃った挑戦における失敗にのみ適用される、と解説した。それに則るなら、ここでBくんが行うべきは、無価値な名言によって役に立たない「元気」を捻り出すことなどではなく、詳細な検証である。何がどう起こったのか、挫折の過去映像をよく見返してみる。失敗の原因は100個あるかもしれない。その中には成功の理由になり得たものもあったかもしれない。99%成功に向かっていたのに、最後の最後で失敗したのかもしれない。こうした知的な分析において、当該名言の「大人になるための必要な経験だった」などというナンセンスな意味づけは、ど素人解説者の副音声以上にノイズなのが分かるだろう。

 もう述べる必要もないかもしれないが、この場面でBくんに必要なのは失敗の原因を見つめられるだけのデータである。それなら教える意義はあるかもしれない。僕が話者だったら、そんなに頭が良くないので、このように悩んでいるBくんがいたとしても、積極的にデータは明示しない。当事者にしか分からないことが山ほどあると思っている。そのギャップを差し引いて、なおかつBくんが気づいていないようなデータがあったら提示する。そのくらいの冷静さがないと、Bくんをさらなるどん底に突き落としかねないのだ。無論、並程度の冷静さがあれば、当該名言に心動かされることなく平穏にその場をやり過ごすだろうが。

 

 長くなってしまったが、想定される批判について補論を述べる。まず「元気を出さなければ過去を見つめ直すこともできないのだから、この言葉にはそういう意義がある」という批判。これに関してはノイズという断言をもって再批判する。先に述べたように、当該名言はただのノイズなのだ。元気づけるだけなら他にもやり方がある。穿った見方をするなら、こんな雑で稚拙な名言で元気づけようとするのは、悩んでいる当人への侮辱行為である。一緒にカラオケでも行ってあげた方がマシだ。

 次に……と5つほど続けるつもりだったが、これは批判が出てからにしようと思う。この論を完成させたいのではなく、文章自体に何らかの意義があればと思い書いたに過ぎない。多分に拾い切れていない議論があることは承知しているが、欠陥は過剰に優る場合もあり、このような名言批判は「さらなる議論を呼ぶ」という期待を込められる点でその場合に当てはまると考えているので、ここで筆をおく。