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論理的な文章とは

 論理的、という言葉を、皆さんはどういった文脈で見かけて、どういった意味で使い、どのような状態だと捉えているだろうか。あるいは、どのような文章を読むと論理的だと感じるだろうか。また、論理的でない文章とは何だろうか。

 いくつも問いを畳みかけてしまったが、つまるところ「論理的」とは何なのか、ということである。何故このような問いを設定するのか。それは、この言葉が独り歩きしていて、その足跡があまりにも曖昧で、捉えどころのない概念に“成り下がっている”と感じるからだ。今回はちょっと長めに、この「論理的」という言葉、あるいは「論理的な文章」について、所感を述べてみようと思う。

 

 誰しもが文章を書く時代である。そして、ここが重要なのだが、誰しもがそれを“読んでもらっている”時代である。日記は卓上からインターネットへとそのフィールドを移した。Twitterは全盛期であり、LINEでのコミュニケーションは毎日行われている。ブログには読者が、Twitterにはフォロワーが、LINEには相手がいる。当然のことながら、書いた文章はいとも簡単に読まれる。読まれて、思考を促し、場合によっては返事が来る。

 さて、文章において「論理的」とはどのような状態か。論理の筋道がちゃんとしている。分かりやすい。あるいは、小難しい。そういった声が聞こえてきそうだ。それらはある意味で合っていて、ある意味で不十分だと思う。もっと的確に簡潔に、論理的である文章を言い表す言葉がある。僕はここに「意思伝達を意識し、それが成功した文章」という定義を設定しようと思う。

 先に述べたように、文章は必ず相手、つまり読み手を想定する。誰にも見せない日記だって、自分は読み返すので、そういった意味では読み手を意識しない文章など存在しない。まずそれが意識されるかどうか、ここに論理的であるかそうでないかの境界線が引かれる。

 例えば、僕がいきなり書き出しで「シネクドキは、数あるフィギュールの中でも定義が不安定なことで有名だ」と述べたとしよう。この文章自体に文法的な欠陥はない。しかし、これは意思伝達を意識しているとは、とてもじゃないけど言えない。何故なら「シネクドキ」という言葉は多くの読み手にとって(それが言語学の学会でない限り)初見であり、「フィギュール」も同様だ。そこが分からない限り「定義が不安定」と言われてもピンと来ない。ましてや「有名」などと言われては困り果ててしまう。書き手が読み手を意識していないから、こういった齟齬が生じる。僕の定義に則して言うなら、この例文は論理的ではない。

 どうすれば良いか。推敲してみよう。簡単に思いつくはずである。不明瞭なふたつの語彙に対して説明を施し、定義が不安定な理由を述べ、必要ならば歴史的背景を説明し、有名であることに説得力を持たせるのだ。こうすれば意思伝達の意識という段階はクリアである。あとはそれが成功するかだ。

 言い換えながらまとめる。論理的な文章を書くためには、まず読み手を意識すること。そして、読み手が何を知っていて、何を知りたいのかを考えること。それに則した表現を選択し、決して説明不足にならないようにする。これが第一歩だ。

 余談だが、僕はオカマとの対談ブログをやっている。決して分かりやすい会話をしているつもりはないが、何故か「読みやすい」という声をいただくことが多い。その理由は、ここまで読んでくれた皆さまなら容易に想像できるはずである。対談とは、「常に読み手(僕にとってはオカマ)がいる文章」を連ねる形式だからだ。逆説的に言うなら、多くの文章が論理性を欠いてしまう原因は、読み手を意識していないからだ。それを証明する実例になっている。

 閑話休題。読み手を意識することを練習する方法がある。手っ取り早いのは誰かに読んでもらうことだ。そして必ず返事をもらうこと。はっきり言ってくれて少し物わかりの悪い友人がいればベストパートナーだ。そういった人に伝達できれば、その文章は論理的であると言える。

 

 さて、第二の問題が残っていた。ここからは前提をクリアした文章が「成功」するかどうかの条件を検討しよう。

 意思伝達を意識することは理解した。そのつもりで書いた。しかし伝わらない。往々にして発生する現象だ。一例を書いてみる。

<シネクドキとは、提喩のことだ。下位概念を上位概念で喩えること。空から白いものが降ってきたら、それは雪だと分かる。提喩は面白い。他の比喩とは毛色が違う。他の比喩は~>

 ここから他の比喩との対比を論じるとする。しかし、読み手の思考はストップしてしまうだろう。何を伝えたいのか分からないからだ。書き手である僕は「意思伝達を意識」して分かりやすく言い換えたり例を挙げたりした。でもそれは伝わらなかった。失敗である。

 僕に足りなかったのは何だろうか。ふたつある。「問いの設定意識」と「目印」だ。順を追って説明する。

 

 読み手は、文章に対して何らかのリアクションをしながら読み進める。皆さんはひとつ前の段落を読んで「え、どういうこと?」という反応をしたことだろう。いきなり問いの設定意識とか目印って言われても分からないだろうから。

 そこで、読み手の皆さんがどういった反応をするかを考え、それに対するアンサーを続ける。「え、どういうこと?」と思った皆さんへのアンサーは「順を追って説明する」という一文だ。これによって、今は分からなくていいよ、という意思伝達になっている。ここに読み手と書き手の対話が生まれる。

 件の例文で、僕はわざと問いの設定をサボった。だから読み手は置いてきぼりになる。書き手と読み手が常に同じレベルでシネクドキに興味を持っているわけではないし、むしろほとんどの場合書き手の方がより興味深く思っているのだ。そのギャップを埋めていかないと、読み手は離れていってしまう。

 さて、例文の最初にこのような工夫を施したらどうだろう。

<普段何気なく使っている比喩表現の中に、シネクドキという概念があるのをご存じだろうか。聞きなれない言葉だ。提喩と訳そう。直喩や隠喩ならともかく~>

 問いの設定を意識した。これで幾分か読みやすくなったと思う。身近な例から徐々にフォーカスを当てていく。オーソドックスな形だ。読み手に?を与えて、それを!に変えていく。論理的な文章とは、その連綿たる流れによって構成されるのだ。

 

 問いの設定意識について述べた。ここからは、目印の話に移る。さらに実践的なテーマになってくるだろう。(これも目印ですね。)

 街角で困っているおばあさんがいた。どうやら交番を探しているらしい。教えてあげよう。教えてあげたいという「意思伝達の意識」が芽生えた。それなのに「こっちからバーって行ってちょっと行ったところを右にチョロっと入ったら着きますよ!」と言ってしまったら……明白な失敗だ。原因は言うまでもなく、目印の有無なのだ。

 目印とは、言い換えれば接続詞だ。先ほどの例文を再掲する。「シネクドキとは、提喩のことだ。下位概念を上位概念で喩えること。空から白いものが降ってきたら、それは雪だと分かる。提喩は面白い。他の比喩とは毛色が違う。他の比喩は~」この文章に接続詞が一切使われていないことに気づいただろうか。目印無しに道案内をするようなものだ。それでは目的地に辿りつけるわけがない。ここに、いくつか接続詞を加えてみよう。

<シネクドキとは、提喩のことだ。つまり、下位概念を上位概念で喩えること。例えば、空から白いものが降ってきたら、それは雪だと分かる。提喩は面白い。何故なら、他の比喩とは毛色が違うからだ。他の比喩は~>

 このように目印を設置することの意義は、先ほどの話につながる。読み手の?に書き手が回答を加えながら文章は進んでいく、そう述べた。このとき、回答の質感を決定するのが接続詞なのだ。

 例で言うと「シネクドキとは、提喩のことだ」という文章を読んで、読み手は?を浮かべる。その?に対して、回答をぶん投げずに、きちんと質感を示しながら差し出す。言い換えるよ、そう囁きながら「つまり」という接続詞を使う。例を出すよ、と言いたかったら「例えば」を使う。裏切るよ、驚いてね、と言いたければ「しかし」を使う。このように、接続詞こそ文章における目印であり、対話のコントロールを担う存在なのだ。いや、対話そのものと言ってもいい。そのくらい接続詞は重要である。

 しかし、しばしば書き手の接続詞に関する意識は希薄である。それは、対話することの意識の希薄さと言い換えられる。読み手がどのような?を浮かべ、それに対しどのような質感の回答を示したいか。これを段落単位、ときには一文単位で考え抜く。論理的な文章とは、そういう努力の末に生まれる。

 

 「論理的である」とは、ひとりよがりにならないことだ。どこまでも協調的に、どこまでも意思伝達の意識を明確にする。そのためには、読み手の問いに気づくこと。使用する接続詞に自覚的になること。これだけ対話する努力をすれば、読み手は満面の笑みで「分かったよ!」と言ってくれるはずだ。

 それぞれのファクターに対して、簡単なアプローチをしてみた。この文章は論理的だっただろうか。努力はした。あとは、読み手の皆さんの評価を待つばかりだ。文章に関しては、拙筆ゆえに自信も説得力もないのだが、間違いなく言えることがある。最大限の努力を施した上で読み手からの評価を待つこのときの緊張感は、味わったぶんだけ成長する。

 

 

 

文章を書く上で参考となる書籍を以下に記す。

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

論理について練習問題を解きながら学べる本。トレーニングを通して、複雑な論理関係を捉える力が身につくので、書く際にも良い影響を及ぼしてくれるはずだ。

語りえぬものを語る

上と同じ著者によるエッセイ集。内容は哲学だが、論理学畑の著者によるエッセイなので、何より「平易で論理的な文章」の宝庫という側面に注目したい。できれば気に入ったエッセイについて文章構造を分析する訓練をすると良いだろう。

日本語類義表現使い分け辞典

座右に置いておきたい辞書。論理的な文章の核となる分詞について、詳細な使い分けを学ぶことができる。引くだけでなく、読んでも楽しい。

伝える!作文の練習問題 (NHKブックス No.1182)

書き慣れた人には少し退屈かもしれないが、それでも「は」と「が」の使い分けなど、目を見張る解説がいくつかある。筆者はレトリックに関する書籍もいくつか出しているので、彼の解説が肌に合った方はそちらも参照してみると良いだろう。

日本語レトリックの体系―文体のなかにある表現技法のひろがり

もし例文に何度も出てきた「シネクドキ」について体系の中での理解を深めたい方はまずこちらから読むと良い。