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友人の書いた小説で勝手に問題を作る(童話の深読み解答編)

 作者の気持ちを答えなさい、という問題が死ぬほど苦手だった。だってわからないじゃん、作者の気持ち。作者からのメッセージを受け取って自分の感想を言うならできるけど。作者の気持ちなんてどこまでいっても推測だから、納得いかない。「解答解説」なんて仰々しく書かれた参考書を読みながら、憮然としていた。成績が伸びない学生の典型例だ。

 そんな思いから、今回「作者と直接コンタクトを取ってみよう」という考えに至った。そこで、タイミングよく物語を自分のブログにアップしていた友人の未だ工事さんに声をかけたのだ。渋々承知してくれてありがとう。改めてお礼を言います。

 さて、物語は転送装置を巡るSFだ。最後にちょっとパロディーめいたオチが用意されている。ネタバレどころの騒ぎじゃなくなるので、このへんで問題編のリンクを貼っておこう。 友人の書いた小説で勝手に問題を作る(問題編) - 詳細は先程 こちら、まだ読んでいない方は参照してほしい。

 一読し、検討しつつ、作者と僕の間で見解が異なりそうな箇所に傍線を付与した。そして問題設定をし、それについて「僕の」解答をつける。言うなれば批評だ。そして、明日「作者が」アンサーしてくれる。世にも珍しい批評へのレスポンスだ。このふたつの記事が、「作者の気持ち」なんてものが到底推し量れないことの証になれば幸いだ。

 

 

1:マウスのエピソードは、文章全体から見てどのような役割を果たしているか。

 文章は当然前から読んでいく。しかし、こういった問題は全文を読んでから解く必要がある。そして、問題設定は「役割」だ。単に作者の意図だけではなく、この箇所がどういった創作過程で生まれたのかを考えなければならない。作者の思考を辿り、配置と認識の意図を量る。そうして初めて浮かび上がってくるのが「役割」だろう。

 マウスのエピソードは言うなれば物語の発端だ。研究員(のちの被験体1号)が「生物が転送装置によって転送される際に、何か大きな体験をしている」という考えに取りつかれるきっかけとなった事件。彼の人生は、この考えに固執したせいで破滅してしまうが、研究員としては本望なのだろう。そう考えると、マウスの事件は「運命」だったようにも感じる。研究員が研究員たる所以はまさにそこで、何かしらを「運命的に」発見することで己の生涯に意味を見いだせる。最近も日本人が発見した新しい原子が原子番号113番として正式に認定されるというニュースがあったが、これも相当長い年月を経てようやく見つかったものらしい。研究員は、その運命的な瞬間を待つことができる人間性、もっとスケールを広げるならその「遺伝子」を持っているのだろう。

 このように、文章全体に「研究員の運命」というテーマ性を付与する箇所こそ、このマウスのエピソードなのだ。ここがなければ、この物語は単なる「転送装置を巡るドタバタ劇」になってしまう。マウスのエピソードには、物語のテーマ性を根深くするような、そんな力が備わっていると言えるだろう。

 

2:2号機が持つ文章構成上の役割を答えなさい。

 外乱を大きくし、どうやらキメラが誕生することを予感させる2号機。起承転結で言えば「転」が迫ることを暗示している箇所のように思えるが、僕の見方は若干違う。

 僕は物語を作る際に、オチが発想のキーとなることがしばしばある。それがインパクトの大きいものであればなおさらだ。ピーチジョンの魅力は、何よりもその味のあるオチだろう。きっと作者はこのオチから物語を創作したのだと思う。そう考えると、このオチを生み出すために必要な2号機というのはもはや物語の主軸である。なくてはならない存在であり、この物語の構想(オチで桃太郎を誕生させる)が着想された時点で、この2号機は必然的に誕生したと言える。

 詳しく分析する。オチの着想が初めにあって、そこから舞台設定を決める。そのときまず考えるのは「桃太郎を生むことができる機械」だ。この物語では、2号機がその役割を果たす。誕生のタイミングとしては、舞台設定の決定とほとんど同じ、もしくは完全に同時だと言える。つまり、この2号機は認識上「舞台」そのものであり、中核でも外延でもある存在なのだ。作者の発想の順序を正確に汲み取ろうと努力すれば、この2号機の持つ役割が「舞台」だということに気づくだろう。

 

3:ここでの舞台設定が夏である理由を答えなさい。

 さて、問2の解答で、2号機が「舞台」であることを述べた。しかし、物語の特性上、その他の肉付けをしないと成り立たなくなってしまう。物語とは、骨子の箇条書きでなく、ひとつの世界だ。そのように考えた場合、季節の設定というものはある種必須の項目となってくる。

 しかし、だ。SFにおいて、その季節感はあまり問題とならない場合が多い。ましてや研究員くらいしか出てこない転送装置のショートストーリーでは、夏である必然性も少ないだろう。では、なぜここで「夏の日」という限定が行われたのか。

 簡単に思いつくのは、最後に登場する桃の旬が夏だということ。しかし、これでは分析しきれていないように思える。というのも、オチできちんと「桃」だと明示しているのに、わざわざ隠喩的な「ある夏の日」というワードを書いているのが不自然なのだ。夏から桃を推測させたいなら、最後のオチに桃を明示する必要はないのではないか。そう考えると、ここでの季節設定は、他に意味があるように思えてならない。

 ここで改めて述べたいのは、前問についてだ。運命と舞台――今まで取り上げた傍線2か所が持っていた役割である。何か足りない気がする。運命は言い換えれば脚本だ。舞台はそのまま舞台。役者は研究員だ。足りないのは、幕。この舞台をそっと閉じ、余韻を残すために必要なのは、幕である。それが「ある夏の日」という情緒的な決まり文句なのだ。春でも秋でも冬でもなく、最も情緒を喚起させる「夏」が選ばれたのは、ショートストーリーに欠けがちな「幕」を、意図的に付け加えたかったからだろう。こうして物語は、ようやく観客を呼べるようになったのだ。

 

 明日は作者による自作解説、及び設問の答えをアップします。どうなることやら、今から楽しみです。それではまた。