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童話(@tatanai_douwa)の詳細です

あのツイートの作り方

 言葉について考えるブログなので、たまには人気ツイートの分析なんていうものもやってみようかと思った次第です。でも、個人的な感情があまり表に出ないように努めることで精いっぱいな気がします。無断転載も外部リンクもしないので伝わるかどうか不安ですが、さっそく始めていきましょう。

 

「鋭いこと」の正体

 鋭さって何でしょう。大人の鋭さとは、つまるところ「別視点」か「メタ視点」です。Xという議題に対してAとBという意見が出ているときに、Cを出したり、Xという問い自体を疑ってみたり。これが鋭さです。

 では、子どもの鋭さはどういったものでしょうか。これはもっと単純なことです。正面から見ること。大人の価値観(AやBという意見)から脱却し、物事を正面から捉えてみます。こう書くと難しそうに見えますが、例を出せば分かりやすいと思います。

〈X=結婚は人生の墓場〉

 これについて、大人は「A=そうだ」「B=そんなことない」という意見を出します。子どもの鋭さは、

〈墓場ならずっと一緒にいられる〉

という、メタファーをメタファーとして捉えない正面性です。言葉遊びに近い。でも、大人はわざわざしない考え方です。ここに「鋭さ」が生まれる。慣れきったメタファーならなおさらです。

〈X=時は金なり〉

〈お金ならプリンが買える〉

こんな感じです。いくつでも作れます。メタファーという大人の言葉から脱却し、字義通りに捉える。これでお手軽ツイートが作れます。前者の例だけ出しておくので、後者は皆さんで考えてみてください。

 

女の子(4歳)がだしぬけに「けっこんって おはか なの?」と訊いてきたので、戸惑いながらも「そんなことないよー!誰が言ってたの?」と尋ねたら「おとうさんが いってたの! でも おはか なら ずっといっしょに いられるね!」って。素敵な発想だなあ。

 

 

大人が忘れてしまったこと

 我々は成長の過程で、いろいろな視点を忘れていきました。欲を満たすため。うまく生きるため。必要じゃないことはどんどん捨てていきます。だからこそ、子どもの考え方に憧れてしまうのでしょう。大人のエゴですね。ああ、気持ち悪い。

〈雨は花を育てる〉

忘れてしまいましたね。わざわざ考えもしないでしょう。雨は花を育てるのです。雨が降って悲しんでいる彼女に「でもさ、雨は花を育てるんだぜ」なんて言ったら、翌日LINEを晒されますね。ここでこういう発想をしないのは「うまく生きること」なんです。裏を返せば、下手に生きてみれば子どもの視点を再認識できます。

雨が降ってお遊戯が中止になって悲しんでいる女の子(4歳)を「明日は晴れるから!泣かないで!」と慰めていたら、男の子(5歳)がトコトコやってきて「○○ちゃん!○○ちゃんの すきな おはなさんはね!あめが ふるから そだつんだよ!」って。子どもの方がよっぽど慰め方わかってるなー。女の子の顔はすぐに晴れました。

 こんな感じです。赤子の手を捻るくらい簡単ですね。全体を整えるために使ったのは「慰め方」というテーマ性です。子ども優位に立たせるのがポイント。「大人が反省する」という整え方をするだけで、いい話に見えます。この世界では子どもが鋭くて、大人は悲しい生き物。この統一感が大切です。

 

テクニックまとめ

 以上のことを、ツイート創作のときには意識的にやることが大切です。うまくいく手順としては、まず言葉の導入。簡単なメタファーでもいいし、簡単な概念でも構いません。

 次に、それを正面から捉えてみます。墓場は一緒にいられる。雨は花を育てる(から悪いもんじゃない)。それを子どもに言わせることで、鋭さが演出できます。

 さらに対立軸を浮き彫りにさせます。子どもは鋭い、大人は悲しい。ここで大人代表として「保育士」を登場させましょう。決して変なことは口にしない、いわゆる常識人です。これで子どもの鋭さを際立たせることができます。

 最後にテーマ性。これはなくても構いません。後者の例では「慰め方」という簡単なテーマ性を帯びさせて、まとめました。

 以上でテクニカルに「子どものいい話」を作る手順の説明を終わります。導入語さえ思いつけば、いくつでも作ることができます。皆さんもやってみてください。

 

 

推敲の一歩目

 「童話さんはどうやって自分の文章を推敲しているのか」と尋ねられたことがある。そのときの返事は覚えていないのだが、おそらく「あんまりしていないです」に類するような、何とも気の抜けた回答だったように思う。というのも、本当にあまりしていないのだ。正確に言うなら、自覚的に推敲することがほとんどない。勝手に手を動かしている。

 理由はふたつある。もともと文章に自信がないので、真面目に読み返すのは億劫なのだ。恥ずかしいと言い換えてもいい。その代わり、と言ってはなんだが、書き出す前に少し時間をかける。書き出してからは自分の文章を見つめたりしない。

 ふたつめの理由はもっと深刻で、僕と推敲の相性が悪いのだ。実は、推敲についての技術を学んだことがない。校正のお手伝いのようなバイトをしていた時期も、取り立てて「技術」を学んだ覚えはない。作業のシステムを理解した(暗記した)だけだった。    おそらく推敲というのは、体系化された技術ではなく、喩えるならスポーツの技術に近いものなのだろう。これをこうすれば完璧、といったハウトゥーはなく、切磋するうちにできることが増え、琢磨しているうちに積み重なり、それでも捉えきれないようなもので、怠惰な僕には相性の悪いものなのだ。見渡せないのがどうにも辛い。目標が見えないのがどうにも心地悪い。そうした思いが、僕を推敲から遠ざけていた。

 そうも言っていられない事情ができた。ブログである。言葉について語っていくブログは、今まで「レトリック」「論理」「表現一般」を軸にして、その他周辺事項をつらつら書きながら、論じる練習、エッセイを書く練習、国語の問題を作る練習などをしてきた。言うなれば日本語(の文章)のおもちゃ箱だ。このブログを続けるにあたって避けられないのは、言葉について語る文章の言葉が稚拙だったらどうにも格好がつかない、という問題だ。

 推敲をしなければならない。認識に従って表現し、そうであるべき配列に従って並べた文章も、一度自分の手から放して、客観的に推敲する必要がある。必要に駆られて初めて、自分の「推敲との相性の悪さ」を苦しく感じる。ただ救いなのは、これがまだ仕事じゃないところだ。読み手の方々と一緒に練習することが許される。と、信じている。

 ここに、掴みどころのない「推敲」について考える場を設けようと思う。手始めに、読み手の方々から何か募集しようかな。500字以内の簡単なエッセイをください。匿名でも構いません。テーマが自由だと困ると思うので、せっかくだから「日本語」で。〆切は特に設けません。条件はひとつ。僕がこのブログ上で推敲するのを許可してくれること。それでは、お待ちしています。DMでもメールでも構いません。よろしくお願いします。

 

Mail:dimdouwa@gmail.com
@

「頭髪を乾かすためにお使いください」という注意書き

 何気ない文面にも、その背景を汲み取って、あれこれ考えてしまうときがある。特に注意書きの威力は凄い。様々な思いを感じる。以前沖縄の安いドミトリーに泊まったとき、エレベーター内に英語で「ジャンプするな!」と書かれていて笑ったのを今でも思い出す。誰かジャンプしすぎた人がいたのだろうな。その人とお酒でも飲んでみたくなった。

 近所のフィットネスクラブでバレーボールをするのが趣味で、週に二回ほどお世話になっている。フィットネスクラブの更衣室は、注意書きの宝庫だ。先日、特に気になるものを見つけた。ドライヤーが設置されている場所にあった「頭髪を乾かすためにお使いください」という注意書きだ。

 ジャンプの例と同じ思考が働く。このフィットネスクラブでは、頭髪以外を乾かす人がいたのだろう。わざわざ明記するという行為が、そういう過去を浮かび上がらせる。それだけではない。それが「迷惑」だとはっきり示しているのだ。もしかしたら、クレームがあったのかもしれない。「アイツ頭髪以外乾かしているぞ!」と。これは結構面白い。

 まず考えられるのが、場所の問題だ。しかしこのフィットネスクラブ、会員数の割にドライヤーが多くて、都合10個は設置されている。すべてが埋まっているのを見たことがない。頭髪以外を乾かしていてドライヤーが使えない人が出てきたのなら話は分かるが。どうやらそうでもなさそうだ。

 ということは、頭髪以外――つまりワキ毛や下の毛など――を乾かしている行為「自体」が迷惑なのだろうか。確かに見ていて気持ちの良いものではない。しかし、クレームを入れるほどだろうか。フィットネスクラブ側が注意書きにするほどのことだろうか。うーん。

 三週間くらい考えていた。ブログにでも書こうかな、と思っていたところ、偶然見つけてしまった。ついさっき。いやはや、さすが伊集院光である。『深夜の馬鹿力』でこのことについて考察していたのだ。伊集院曰く、海パンを乾かす輩を防止しているのではないか、と。そうか、それには気づかなかった。感心した次第である。

 その放送では、最終的に「肛門を乾かす老人を見つけて、そういうことかと合点した」というオチがついていた。何とも世の中には、自分の思いつかないドライヤーの使い方を思いつく人がいるものだなあ。フィットネスクラブの注意書きだけでこれだけ楽しめるのだから、世界に飽きることはないのだろう。少し明るくなった金曜日だった。

新しい世界

 「言語は事実を表現するものではなく、事実に対する見え方を表現するもの」という金言がある。認知言語学と呼ばれる諸分野で、20世紀後半から現れた考え方だ。この根元は新しいレトリック観に通じている。このブログでもレトリックは表現技法ではなく認識そのものだと何度か述べてきた。まさしく、それを言い換え、より本質に迫っている金言だ。

 辞書にある言葉は、すべてを表すには不足が過ぎる。しかし、それが辞書なのだから仕方がない。すべての認識をカバーしようとしたら、辞書は編めないだろう。例えば「失恋に伴う悲しくもどこかスッキリした気持ち」を表す動詞はない。「墨汁を半紙にひっくり返したような色の海」を表す名詞はない。なくても、そう言い表すことができるなら、それで良いのだ。ちなみに後者は直喩、レトリックである。

 人間の認識は無限の可能性を秘めている。日々新たな認識が、それこそ人間の数だけ生まれているのだろう。そのすべてをカバーできるほど、言葉は有能ではない。しかし、それを表現し続けようとする努力を、言葉は受け入れてくれる。高度に発達したレトリックと、その土台となる論理、表現が、我々の言語活動を支えている。これを根幹と言わずして何と言うのか。これが、昨今の言語学の主流となる考え方だ。

 いま僕自身は、レトリックを中心に、より包括的な題材を扱う認知言語学、隣接分野である認知心理学、もう一方の軸である論理学、さらに広範な分析哲学などを中心に学習を進めている。体系的な理解をしきれていないので、このブログで「要素」について言及していくのには、いささか不安があるのだが、しばらくは「言葉を楽しむ」というスタンスで続けていこうと思う。

 言語は、新しい世界を切り開きつつある。まだ片足を突っ込んだだけの身ながら、恐れ多くもその片鱗を感じずにはいられない。その可能性に満ち溢れた考察に触れるたびにワクワクし、新しい見方を獲得するたびに興奮し、さらなる世界を臨むたびに少年のような気持ちになる。どのように学習を進めていったか、その記録でもある当ブログで、言葉に興味を抱いてくれる同志が現れたら、存外の喜びである。

「つまずいた数だけ大人になれる」は今後一生使うな

 名言、と呼ばれる言葉がある。偉大な哲学者や第一線で活躍するスポーツ選手、はたまた人気の俳優など、影響力のある人間が言った「名言」は、多くの人の心を揺さぶってきた。ためしに名言botのフォロワー数を見てみると、軒並み10万超えである。いかに大衆が「名言」を求めているか、見て取れる。

 名言が効用を発揮することに、僕はずっと違和感を抱いてきた。「名言で元気づけられた」なんてパラレルワールドの世界の出来事にしか思えない。しかし、ただ嫌っているだけではアンチ名言の宗教家である。ここでは、特に嫌いな名言「つまずいた数だけ大人になれる」を取り上げ、その言葉の稚拙さと欠陥を論じていこうと思う。

 

 この名言が想定している人間を、簡単に2タイプに分類しよう。挑戦してつまずくことを恐れているAくん、挑戦してつまずいて落ち込んでいるBくんだ。Aくんには「恐れるな、挑戦しろ」という意味合いを、Bくんには「元気出せよ、大人になれただろ」という意味合いを持って、この名言は効用を発揮する(ということになっている)。

 もうどの角度から見てもナンセンスな名言なのだが、諦めずに解体していこう。

 まずAくんに向けられた場合。挑戦の内容がいかなるものであったとしても、それが成功するか失敗するかは極めて不安定な未来であり、予測不可能性を孕んでいる。この前提があるからこそ、挑戦しようとする人は「迷う」のだ。様々な未来を想像する。その中にはみじめに挫折する映像もある。どうしよう、不安だ。踏み込むべきか、どうなのか。

 そんな迷えるチャレンジャーに必要な言葉があるとすれば、正確なデータくらいだ。予測というのは、正確なデータを積み重ねることで確実性を増す。もちろん前述した通り、100%にはならない。しかし、経済の未来を主張する学者が膨大なデータを示すように、気象予報士が最先端の技術と学術で明日の天気を予想するように、道端の胡散臭い占い師ですら分厚い本を携えているように、データはそれが正確である(と信じられるだけの裏付けがある)ならば、未来の姿を担保するものとなる。Aくんが知らないであろう情報なら、その裏付けをきちんと説明した上で、伝えてあげるべきだろう。それによってAくんの決断はより「納得できる」ものとなるかもしれない。

 翻って、当該名言はどうか。何らデータ性がない。ましてや「大人」などという漠然とした表現でお茶を濁そうとする、迷惑で勝手な発言だ。仮に「大人」が「これからの挑戦における成功率が高くなる」という意味だとしても、それが保証される失敗など限られている。例えば数々の検証可能なデータをもってして行った挑戦において、失敗し、それらの再検証を行った上で同じ挑戦をするなど、そういった限定的場面ならば「成功率は高くなる」かもしれない。しかし、ここでAくんに向けられたこの名言はそのような背景には鈍感である。どのようにつまずいてどのように成功率が高くなるのか、そういった側面に寄り添った論理がない。この名言を見て「よし、やろう!」となったところで、結局無駄な失敗をして無駄に落ち込むだけだ。何故なら、盲目な名言によって突き動かされるような浅い挑戦に、検証可能性は無いに等しいと言えるからだ。

 さて、言い尽くしてはいないが、Bくんのケースに移る。Bくんは残念ながら挑戦をして失敗した。期待を持って転職したらブラックだったり、自費出版したら売れなかったり、告白したらフラれた。よくあるBくんの挫折は、不安感を呼び、臆病になっている。このBくんに向けられた当該名言の「恐ろしさ」を分析しよう。

 Bくんは、失敗した。それは動かせない事実だ。変化が期待できるのは未来だけである。その未来において、行動主体となるBくんはいま、臆病になっている。過去がチラつくからだ。何とか元気づけたい名言の話者は、「大人になれたんだから元気出せ」と言う。はっきり言って、話を聴いているのか疑問である。百歩譲って、仮にこの挫折体験が「大人になる」に十分なものだったとして、元気がないこととは無関係である。過去を引きずっているから落ち込んでいるのだ。その映像を想像してあげられるくらいに敏感な話者なら、その過去に「大人になるための経験だった」という無価値な情報を見出して指摘することは、至極無駄であることに気づくだろう。

 先ほど「大人」の意味を最大限好意的に解釈して「これからの挑戦における成功率が高くなる」と言い換えた。加えてそれは、きわめて限定的な場面での、検証可能性のあるデータが十分に揃った挑戦における失敗にのみ適用される、と解説した。それに則るなら、ここでBくんが行うべきは、無価値な名言によって役に立たない「元気」を捻り出すことなどではなく、詳細な検証である。何がどう起こったのか、挫折の過去映像をよく見返してみる。失敗の原因は100個あるかもしれない。その中には成功の理由になり得たものもあったかもしれない。99%成功に向かっていたのに、最後の最後で失敗したのかもしれない。こうした知的な分析において、当該名言の「大人になるための必要な経験だった」などというナンセンスな意味づけは、ど素人解説者の副音声以上にノイズなのが分かるだろう。

 もう述べる必要もないかもしれないが、この場面でBくんに必要なのは失敗の原因を見つめられるだけのデータである。それなら教える意義はあるかもしれない。僕が話者だったら、そんなに頭が良くないので、このように悩んでいるBくんがいたとしても、積極的にデータは明示しない。当事者にしか分からないことが山ほどあると思っている。そのギャップを差し引いて、なおかつBくんが気づいていないようなデータがあったら提示する。そのくらいの冷静さがないと、Bくんをさらなるどん底に突き落としかねないのだ。無論、並程度の冷静さがあれば、当該名言に心動かされることなく平穏にその場をやり過ごすだろうが。

 

 長くなってしまったが、想定される批判について補論を述べる。まず「元気を出さなければ過去を見つめ直すこともできないのだから、この言葉にはそういう意義がある」という批判。これに関してはノイズという断言をもって再批判する。先に述べたように、当該名言はただのノイズなのだ。元気づけるだけなら他にもやり方がある。穿った見方をするなら、こんな雑で稚拙な名言で元気づけようとするのは、悩んでいる当人への侮辱行為である。一緒にカラオケでも行ってあげた方がマシだ。

 次に……と5つほど続けるつもりだったが、これは批判が出てからにしようと思う。この論を完成させたいのではなく、文章自体に何らかの意義があればと思い書いたに過ぎない。多分に拾い切れていない議論があることは承知しているが、欠陥は過剰に優る場合もあり、このような名言批判は「さらなる議論を呼ぶ」という期待を込められる点でその場合に当てはまると考えているので、ここで筆をおく。