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文章を縦に組み立てるときの留意点

 友人のオカマが常々「文章をまとめる能力が無い」と漏らしていた。偶然にも別の女性からも同じ愚痴を聞いた。二人の話を要約するに、どうやら結論という到達点に辿りつくまでに、様々な形で脱線してしまうという。よく言えば「気が利く」のだ。あれもこれもと心配しているうちに、散らかってしまう。結局何を伝えたいのか分からない文章が仕上がる。どうしたものか。

 この問題について考えるために、立ち返らないといけない観点がある。そもそも何のために書くのか、ということだ。まずは、そこに自覚的になりたい。裏を返せば、書きたいことがないうちは書かない方がいいのだ。書きたいから書く。そして、書いた文章には、その強度は様々ながら、必ず「主張」が含まれる。その主張は、誰かに伝えたいメッセージであるはずだ。つまり、伝えたいから書く。

 では、なぜ伝えたいか。その「主張」と違う意見を持っている人がいるからである。「主張」がピンとこないなら「感性」と言い換えてもいい。その「感性」を理解しないであろう人がいるから伝えたい。その試みこそが文章を書くことであり、自分と違う人間がいるという当たり前の事実こそが文章を書く原動力なのだ。この事実を念頭に置いて書くことで、問題の大部分は解決するはずだ。

 

 今までの話は、ある意味精神論である。実践的な面では、以前このような記事を書いた。 

tatanaidouwa.hatenadiary.jp 

 ここでは、「読み手の問いに気づくこと」「使用する接続詞に自覚的になること」という伝えたいことを伝えるための実践的なアプローチを述べた。今回は、それをマクロな視点に落とし込んで、文章を「縦に組み立てる」ことについて考える。

 「縦に組み立てる」とは、言い換えれば文章に一貫性を持たせることなのだが、先ほど述べたようにそう難しく考える必要はない。「文才」などという曖昧な能力と違い、これに関しては訓練ができる。推敲だ。推敲には、様々なツールが存在する。その文章が「縦に組み立てられているか」をチェックするという観点に絞って、そのツールとして考えた【キーワードレファレンス】を紹介しよう。

 【キーワードレファレンス】とは、書いた文章の中で一番「伝えたいこと」に近いキーワードが、文中でどのように使われているかを参照することだ。ここで大事なのは、キーワードは「テーマに近いもの」ではダメ、という点である。テーマではなく伝えたいことに近いキーワードを選ぶ。テーマが猫でも、主張が「猫は怖い」なら、「怖い」の方をキーワードに設定しなければならない。

 この文章の第一部、精神論について書かれたまとまりがあった。三段落、500文字ちょっとの文章だ。ここに【キーワードレファレンス】を導入してみよう。テーマは「文章をまとめる際の精神」である。しかし、主張は「伝えたいということを忘れるな」である。つまり、設定するキーワードは「伝えたい」が適切である。レファレンスしてみよう。

 第一段落。卑近な経験から始まり、段落最後に「結局何を伝えたいのか分からない文章が仕上がる。どうしたものか。」というキーワードを含む文章が現れる。第二段落でも、またも段落最後に「伝えたいから書く。」という文章が出てくる。最終段落では二か所、「では、なぜ伝えたいか。」「その「感性」を理解しないであろう人がいるから伝えたい。」という文章が見られる。

 さて、【キーワードレファレンス】を行うと「段落ごとの役割」がおのずと浮かび上がってくる。第一段落で問題設定をした。第二段落ではそれを受けて、何のために書くかという視点を紹介し、伝えたいために書くという結論を出している。最終段落では、なぜ伝えたいのかを考え、新たな論を展開し、問題解決の姿勢を提示した。ざっとこんな感じだろう。

 【キーワードレファレンス】の効果は「段落の役割を浮かび上がらせる」という点である。これは推敲の際にとても便利だ。役割が不明、または役割が無い段落は「縦に組み立てる」という観点からすると、不要でしかない。その指標として、キーワードが挙げられる。キーワードがない段落は、役割が不明あるいは無い可能性が高い。つまり、高確率で不要な段落である。その段落を「役割を確定させる」か「削る」という作業にかけることで、文章が縦に組み立てられていく。

 

 蛇足ながら。【キーワードレファレンス】は推敲ツールとしての提案だが、これはまだ実証が不完全である。どのくらい実用性のある推敲ツールなのか、これから様々な場面で検証していきたい。どのような例外が発見され、どういった使用実績が積まれるか、興味津々である。整備して、よりよいツールにしていきたいので、できれば皆さんには、これを使ってもらいたい。そしてこのツールの感想、また修正案などを寄せてください。ご連絡待っています。

あのツイートの作り方

 言葉について考えるブログなので、たまには人気ツイートの分析なんていうものもやってみようかと思った次第です。でも、個人的な感情があまり表に出ないように努めることで精いっぱいな気がします。無断転載も外部リンクもしないので伝わるかどうか不安ですが、さっそく始めていきましょう。

 

「鋭いこと」の正体

 鋭さって何でしょう。大人の鋭さとは、つまるところ「別視点」か「メタ視点」です。Xという議題に対してAとBという意見が出ているときに、Cを出したり、Xという問い自体を疑ってみたり。これが鋭さです。

 では、子どもの鋭さはどういったものでしょうか。これはもっと単純なことです。正面から見ること。大人の価値観(AやBという意見)から脱却し、物事を正面から捉えてみます。こう書くと難しそうに見えますが、例を出せば分かりやすいと思います。

〈X=結婚は人生の墓場〉

 これについて、大人は「A=そうだ」「B=そんなことない」という意見を出します。子どもの鋭さは、

〈墓場ならずっと一緒にいられる〉

という、メタファーをメタファーとして捉えない正面性です。言葉遊びに近い。でも、大人はわざわざしない考え方です。ここに「鋭さ」が生まれる。慣れきったメタファーならなおさらです。

〈X=時は金なり〉

〈お金ならプリンが買える〉

こんな感じです。いくつでも作れます。メタファーという大人の言葉から脱却し、字義通りに捉える。これでお手軽ツイートが作れます。前者の例だけ出しておくので、後者は皆さんで考えてみてください。

 

女の子(4歳)がだしぬけに「けっこんって おはか なの?」と訊いてきたので、戸惑いながらも「そんなことないよー!誰が言ってたの?」と尋ねたら「おとうさんが いってたの! でも おはか なら ずっといっしょに いられるね!」って。素敵な発想だなあ。

 

 

大人が忘れてしまったこと

 我々は成長の過程で、いろいろな視点を忘れていきました。欲を満たすため。うまく生きるため。必要じゃないことはどんどん捨てていきます。だからこそ、子どもの考え方に憧れてしまうのでしょう。大人のエゴですね。ああ、気持ち悪い。

〈雨は花を育てる〉

忘れてしまいましたね。わざわざ考えもしないでしょう。雨は花を育てるのです。雨が降って悲しんでいる彼女に「でもさ、雨は花を育てるんだぜ」なんて言ったら、翌日LINEを晒されますね。ここでこういう発想をしないのは「うまく生きること」なんです。裏を返せば、下手に生きてみれば子どもの視点を再認識できます。

雨が降ってお遊戯が中止になって悲しんでいる女の子(4歳)を「明日は晴れるから!泣かないで!」と慰めていたら、男の子(5歳)がトコトコやってきて「○○ちゃん!○○ちゃんの すきな おはなさんはね!あめが ふるから そだつんだよ!」って。子どもの方がよっぽど慰め方わかってるなー。女の子の顔はすぐに晴れました。

 こんな感じです。赤子の手を捻るくらい簡単ですね。全体を整えるために使ったのは「慰め方」というテーマ性です。子ども優位に立たせるのがポイント。「大人が反省する」という整え方をするだけで、いい話に見えます。この世界では子どもが鋭くて、大人は悲しい生き物。この統一感が大切です。

 

テクニックまとめ

 以上のことを、ツイート創作のときには意識的にやることが大切です。うまくいく手順としては、まず言葉の導入。簡単なメタファーでもいいし、簡単な概念でも構いません。

 次に、それを正面から捉えてみます。墓場は一緒にいられる。雨は花を育てる(から悪いもんじゃない)。それを子どもに言わせることで、鋭さが演出できます。

 さらに対立軸を浮き彫りにさせます。子どもは鋭い、大人は悲しい。ここで大人代表として「保育士」を登場させましょう。決して変なことは口にしない、いわゆる常識人です。これで子どもの鋭さを際立たせることができます。

 最後にテーマ性。これはなくても構いません。後者の例では「慰め方」という簡単なテーマ性を帯びさせて、まとめました。

 以上でテクニカルに「子どものいい話」を作る手順の説明を終わります。導入語さえ思いつけば、いくつでも作ることができます。皆さんもやってみてください。

 

 

推敲の一歩目

 「童話さんはどうやって自分の文章を推敲しているのか」と尋ねられたことがある。そのときの返事は覚えていないのだが、おそらく「あんまりしていないです」に類するような、何とも気の抜けた回答だったように思う。というのも、本当にあまりしていないのだ。正確に言うなら、自覚的に推敲することがほとんどない。勝手に手を動かしている。

 理由はふたつある。もともと文章に自信がないので、真面目に読み返すのは億劫なのだ。恥ずかしいと言い換えてもいい。その代わり、と言ってはなんだが、書き出す前に少し時間をかける。書き出してからは自分の文章を見つめたりしない。

 ふたつめの理由はもっと深刻で、僕と推敲の相性が悪いのだ。実は、推敲についての技術を学んだことがない。校正のお手伝いのようなバイトをしていた時期も、取り立てて「技術」を学んだ覚えはない。作業のシステムを理解した(暗記した)だけだった。    おそらく推敲というのは、体系化された技術ではなく、喩えるならスポーツの技術に近いものなのだろう。これをこうすれば完璧、といったハウトゥーはなく、切磋するうちにできることが増え、琢磨しているうちに積み重なり、それでも捉えきれないようなもので、怠惰な僕には相性の悪いものなのだ。見渡せないのがどうにも辛い。目標が見えないのがどうにも心地悪い。そうした思いが、僕を推敲から遠ざけていた。

 そうも言っていられない事情ができた。ブログである。言葉について語っていくブログは、今まで「レトリック」「論理」「表現一般」を軸にして、その他周辺事項をつらつら書きながら、論じる練習、エッセイを書く練習、国語の問題を作る練習などをしてきた。言うなれば日本語(の文章)のおもちゃ箱だ。このブログを続けるにあたって避けられないのは、言葉について語る文章の言葉が稚拙だったらどうにも格好がつかない、という問題だ。

 推敲をしなければならない。認識に従って表現し、そうであるべき配列に従って並べた文章も、一度自分の手から放して、客観的に推敲する必要がある。必要に駆られて初めて、自分の「推敲との相性の悪さ」を苦しく感じる。ただ救いなのは、これがまだ仕事じゃないところだ。読み手の方々と一緒に練習することが許される。と、信じている。

 ここに、掴みどころのない「推敲」について考える場を設けようと思う。手始めに、読み手の方々から何か募集しようかな。500字以内の簡単なエッセイをください。匿名でも構いません。テーマが自由だと困ると思うので、せっかくだから「日本語」で。〆切は特に設けません。条件はひとつ。僕がこのブログ上で推敲するのを許可してくれること。それでは、お待ちしています。DMでもメールでも構いません。よろしくお願いします。

 

Mail:dimdouwa@gmail.com
@

「頭髪を乾かすためにお使いください」という注意書き

 何気ない文面にも、その背景を汲み取って、あれこれ考えてしまうときがある。特に注意書きの威力は凄い。様々な思いを感じる。以前沖縄の安いドミトリーに泊まったとき、エレベーター内に英語で「ジャンプするな!」と書かれていて笑ったのを今でも思い出す。誰かジャンプしすぎた人がいたのだろうな。その人とお酒でも飲んでみたくなった。

 近所のフィットネスクラブでバレーボールをするのが趣味で、週に二回ほどお世話になっている。フィットネスクラブの更衣室は、注意書きの宝庫だ。先日、特に気になるものを見つけた。ドライヤーが設置されている場所にあった「頭髪を乾かすためにお使いください」という注意書きだ。

 ジャンプの例と同じ思考が働く。このフィットネスクラブでは、頭髪以外を乾かす人がいたのだろう。わざわざ明記するという行為が、そういう過去を浮かび上がらせる。それだけではない。それが「迷惑」だとはっきり示しているのだ。もしかしたら、クレームがあったのかもしれない。「アイツ頭髪以外乾かしているぞ!」と。これは結構面白い。

 まず考えられるのが、場所の問題だ。しかしこのフィットネスクラブ、会員数の割にドライヤーが多くて、都合10個は設置されている。すべてが埋まっているのを見たことがない。頭髪以外を乾かしていてドライヤーが使えない人が出てきたのなら話は分かるが。どうやらそうでもなさそうだ。

 ということは、頭髪以外――つまりワキ毛や下の毛など――を乾かしている行為「自体」が迷惑なのだろうか。確かに見ていて気持ちの良いものではない。しかし、クレームを入れるほどだろうか。フィットネスクラブ側が注意書きにするほどのことだろうか。うーん。

 三週間くらい考えていた。ブログにでも書こうかな、と思っていたところ、偶然見つけてしまった。ついさっき。いやはや、さすが伊集院光である。『深夜の馬鹿力』でこのことについて考察していたのだ。伊集院曰く、海パンを乾かす輩を防止しているのではないか、と。そうか、それには気づかなかった。感心した次第である。

 その放送では、最終的に「肛門を乾かす老人を見つけて、そういうことかと合点した」というオチがついていた。何とも世の中には、自分の思いつかないドライヤーの使い方を思いつく人がいるものだなあ。フィットネスクラブの注意書きだけでこれだけ楽しめるのだから、世界に飽きることはないのだろう。少し明るくなった金曜日だった。

新しい世界

 「言語は事実を表現するものではなく、事実に対する見え方を表現するもの」という金言がある。認知言語学と呼ばれる諸分野で、20世紀後半から現れた考え方だ。この根元は新しいレトリック観に通じている。このブログでもレトリックは表現技法ではなく認識そのものだと何度か述べてきた。まさしく、それを言い換え、より本質に迫っている金言だ。

 辞書にある言葉は、すべてを表すには不足が過ぎる。しかし、それが辞書なのだから仕方がない。すべての認識をカバーしようとしたら、辞書は編めないだろう。例えば「失恋に伴う悲しくもどこかスッキリした気持ち」を表す動詞はない。「墨汁を半紙にひっくり返したような色の海」を表す名詞はない。なくても、そう言い表すことができるなら、それで良いのだ。ちなみに後者は直喩、レトリックである。

 人間の認識は無限の可能性を秘めている。日々新たな認識が、それこそ人間の数だけ生まれているのだろう。そのすべてをカバーできるほど、言葉は有能ではない。しかし、それを表現し続けようとする努力を、言葉は受け入れてくれる。高度に発達したレトリックと、その土台となる論理、表現が、我々の言語活動を支えている。これを根幹と言わずして何と言うのか。これが、昨今の言語学の主流となる考え方だ。

 いま僕自身は、レトリックを中心に、より包括的な題材を扱う認知言語学、隣接分野である認知心理学、もう一方の軸である論理学、さらに広範な分析哲学などを中心に学習を進めている。体系的な理解をしきれていないので、このブログで「要素」について言及していくのには、いささか不安があるのだが、しばらくは「言葉を楽しむ」というスタンスで続けていこうと思う。

 言語は、新しい世界を切り開きつつある。まだ片足を突っ込んだだけの身ながら、恐れ多くもその片鱗を感じずにはいられない。その可能性に満ち溢れた考察に触れるたびにワクワクし、新しい見方を獲得するたびに興奮し、さらなる世界を臨むたびに少年のような気持ちになる。どのように学習を進めていったか、その記録でもある当ブログで、言葉に興味を抱いてくれる同志が現れたら、存外の喜びである。