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優遇されすぎな言葉たち

 夏の晴れた日。せっせと仕事をした後に、同僚とこんな言葉を交わした人は多いだろう。

「焼肉でビールいっちゃうか」

 焼肉でビール。魅惑的な言葉である。誰しもがジューシーな牛肉と、罪深く泡立った琥珀色の液体を想像する。喚起されたその光景は、聴覚だけでなく、味覚までも刺激してくる。

 案外、実行したときの気持ち良さなんてたいしたことない気はしないだろうか。勤務中に飲む水の方がもしかしたら体は欲しているのかもしれない。脳が「気持ちよく思いたい」のではないか。つまり、言葉が優遇されすぎているのだ。

  本格的な冬が始まった。こたつでミカン。こたつで昼寝。最高の代名詞かのように使用されるこの言葉たち。耳にした人はみな「うわ~、いいなあ!」と言い出すことだろう。本当にいいだろうか。いや、確かにこたつでミカン食べているときは幸せだ。でも、目を細めて希求するほど「こたつでミカン」やりたいですか。こたつでじゃがりこだって美味しいし、夏の海でミカンも美味しいはずである。ちょっと優遇されすぎている。これでは「こたつでミカン」君も窮屈だろう。

 

 言葉に対する過剰な優遇は、思考の発展性を失わせる可能性がある。「クリスマスにイルミネーション」「海辺をドライブ」「恋人と夜景の見えるレストランでディナー」「やっぱり男同士が一番気楽だよな」「大どんでん返し」「限定品」「ハイボールと唐揚げ」「専門家の意見」「本をめくる音」「書斎」……。彼らが優遇されすぎる一方で、失われてきた他の可能性がある。クリスマスに浅草寺も悪くない。気楽な女友達だっているはずだ。ハイボールに豆腐も合う。Kindleのタップ音だって心地よいかもしれない。無批判に言葉を優遇することが、他の有意義な可能性をつぶしていることに気づきたい。

 

 ここまで述べた上で、はたと気づく。これは、発信側の問題ではないように思えるのだ。僕が言いたいのは「だからこんなに優遇されている言葉を安易に使うな」ということではない。考えてみれば、伝えやすい、共感を得やすい、という点で、この優遇されすぎな言葉たちは一定の価値がある。いわば「表現の雛形」である。

 主人公と同僚が焼肉屋でストレス発散をしている場面を書こうとしたとき、カシスオレンジや水をごくごく飲みながらチャンジャを食べていたら違和感を抱く。発信側は「焼肉とビール」という優遇されすぎな表現を、あえて使用すべきなのだ。

 なぜなら、文章とは「達意」が大原則だからである。伝わらない表現に価値はない。ゆえに定式化した表現、優遇されすぎな言葉たちには、市民権がある。名言の引用、ことわざでの言い換え、分かりやすい比喩、それらと同じステージに「優遇されすぎな言葉」が存在すると解釈する。

 

 つまり、レトリック*1である。それを分かった上で使用する分には、問題としている言葉たちも、文章を引き立てる道具になる。

 読み手に求められるのは「それがレトリックである」という認識だ。比喩を真に受ける人はいないだろう。それと同じで、優遇されすぎな言葉にも一定の距離感でもって接することが求められる。

 

 想像を喚起するスイッチとして用いられている「優遇されすぎな言葉たち」を、スイッチ以上のものとして捉えるのは危険だと思う。「とりあえずビール」で困る新入社員を、ひとりでも減らしたい気持ちでいっぱいなのだ。(僕はハイボール派です。)

 

 

*1:読者または聞き手を説得するなどの目的のために、表現に工夫をこらす技法