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松岡修造ユーモアに抱く違和感

 極度の寒暖が見られたとき、必ずと言っていいほど流れてくるのが「松岡修造が今どこにいるのか」というユーモアだ。これが、文字通り寒気がするほどつまらない。その理由について分析してみようと思う。

 ユーモアには二種類ある。いわゆる「常識」から逸脱することによって生まれるユーモアと、それが慣習化して馴れ合い的に生まれるユーモアだ。ここでは便宜的に、前者を<コード逸脱型ユーモア>と、後者を<共通コード型ユーモア>と呼ぶことにする。

 このふたつの境界は曖昧だ。かつて一世を風靡した「ラッスンゴレライ」は、もともと<コード逸脱型ユーモア>として認知され、多くのファンを獲得し、いつしか<共通コード型ユーモア>へと変容、流行語になり、近所のおばあちゃんにも通じるようになって、今では忘れられている。ラッスンゴレライからの逸脱(パロディなど)も生まれる始末なので、誤解を恐れずに言うなら「辞書化」したと言えるだろう。曖昧であるからこそ、その境界には敏感であることが求められる。どの層に使うかを見極める能力は、その人がユーモラスであるかのひとつの物差しになる場合もある。が、ここではそこについては論じない。

 さて、<共通コード型ユーモア>は基本的に面白さが薄い。ただし、ここで「重要かつ示唆的な例外」を挙げなくてはならない。それは、その共通コードが「少数の母体」によって運用されている場合だ。多くの人には通じない仲間内での言葉や、モノマネ、ギャグ、そういったものはしばしば笑いを誘発する。これは共通コードに内在するユーモアに「気づける自分」という感覚が心地良いからだろう。ローカル番組で8.6秒バズーカーを発見してその内在するユーモアに気づける自分に心地よさを感じていた層は、それが少数の母体からだんだん拡大していった時点で、笑うことをやめてしまった。彼らにとっては死んだユーモアになってしまったのだ。

 松岡修造ユーモアは、どの位置にいるだろうか。ネットでこのユーモアをコード的に「理解」できない人は、おそらく存在しない。既に辞書化していると言える。しかし、ラッスンゴレライのように毎日メディアに流れるわけではないので、そこに気づいていない発信源が多い。未だに新鮮な<コード逸脱型ユーモア>だと感じている人が多いように思える。ここに違和感を覚えるのだ。

 松岡修造ユーモアを見かけたときの感覚を雑に喩えるなら「夫婦とは結婚した一組の男女のことを意味することが判明www」という文言を見たときのそれである。辞書化したコードに言及されても笑えるはずがない。コード逸脱のユーモアでもなく、少数の母体による共通コードでもなく、流行を自覚している共通コード(ラッスンゴレライなど)でもない。何とも中途半端な位置で使用されている。いっそNHKで取り上げて流行語にしてもらいたい。そうすれば流行を自覚している共通コードのような距離感で使用する人が増え、次第に忘れられていくのだろう。頻度が低い分、そのように変容するにも時間がかかる。このへんが「バルス」と非常に似ていると感じる。

 ユーモアはすべて「初めての逸脱」を目指すかたちで生まれてほしい。この価値観にさしたる根拠はないのだが、共通コードを共通コードと自覚しない上で、そこにユーモアを見出す怠惰さに、どうしてもイラついてしまうのだ。