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童話(@tatanai_douwa)の詳細です

新しい世界

 「言語は事実を表現するものではなく、事実に対する見え方を表現するもの」という金言がある。認知言語学と呼ばれる諸分野で、20世紀後半から現れた考え方だ。この根元は新しいレトリック観に通じている。このブログでもレトリックは表現技法ではなく認識そのものだと何度か述べてきた。まさしく、それを言い換え、より本質に迫っている金言だ。

 辞書にある言葉は、すべてを表すには不足が過ぎる。しかし、それが辞書なのだから仕方がない。すべての認識をカバーしようとしたら、辞書は編めないだろう。例えば「失恋に伴う悲しくもどこかスッキリした気持ち」を表す動詞はない。「墨汁を半紙にひっくり返したような色の海」を表す名詞はない。なくても、そう言い表すことができるなら、それで良いのだ。ちなみに後者は直喩、レトリックである。

 人間の認識は無限の可能性を秘めている。日々新たな認識が、それこそ人間の数だけ生まれているのだろう。そのすべてをカバーできるほど、言葉は有能ではない。しかし、それを表現し続けようとする努力を、言葉は受け入れてくれる。高度に発達したレトリックと、その土台となる論理、表現が、我々の言語活動を支えている。これを根幹と言わずして何と言うのか。これが、昨今の言語学の主流となる考え方だ。

 いま僕自身は、レトリックを中心に、より包括的な題材を扱う認知言語学、隣接分野である認知心理学、もう一方の軸である論理学、さらに広範な分析哲学などを中心に学習を進めている。体系的な理解をしきれていないので、このブログで「要素」について言及していくのには、いささか不安があるのだが、しばらくは「言葉を楽しむ」というスタンスで続けていこうと思う。

 言語は、新しい世界を切り開きつつある。まだ片足を突っ込んだだけの身ながら、恐れ多くもその片鱗を感じずにはいられない。その可能性に満ち溢れた考察に触れるたびにワクワクし、新しい見方を獲得するたびに興奮し、さらなる世界を臨むたびに少年のような気持ちになる。どのように学習を進めていったか、その記録でもある当ブログで、言葉に興味を抱いてくれる同志が現れたら、存外の喜びである。

「つまずいた数だけ大人になれる」は今後一生使うな

 名言、と呼ばれる言葉がある。偉大な哲学者や第一線で活躍するスポーツ選手、はたまた人気の俳優など、影響力のある人間が言った「名言」は、多くの人の心を揺さぶってきた。ためしに名言botのフォロワー数を見てみると、軒並み10万超えである。いかに大衆が「名言」を求めているか、見て取れる。

 名言が効用を発揮することに、僕はずっと違和感を抱いてきた。「名言で元気づけられた」なんてパラレルワールドの世界の出来事にしか思えない。しかし、ただ嫌っているだけではアンチ名言の宗教家である。ここでは、特に嫌いな名言「つまずいた数だけ大人になれる」を取り上げ、その言葉の稚拙さと欠陥を論じていこうと思う。

 

 この名言が想定している人間を、簡単に2タイプに分類しよう。挑戦してつまずくことを恐れているAくん、挑戦してつまずいて落ち込んでいるBくんだ。Aくんには「恐れるな、挑戦しろ」という意味合いを、Bくんには「元気出せよ、大人になれただろ」という意味合いを持って、この名言は効用を発揮する(ということになっている)。

 もうどの角度から見てもナンセンスな名言なのだが、諦めずに解体していこう。

 まずAくんに向けられた場合。挑戦の内容がいかなるものであったとしても、それが成功するか失敗するかは極めて不安定な未来であり、予測不可能性を孕んでいる。この前提があるからこそ、挑戦しようとする人は「迷う」のだ。様々な未来を想像する。その中にはみじめに挫折する映像もある。どうしよう、不安だ。踏み込むべきか、どうなのか。

 そんな迷えるチャレンジャーに必要な言葉があるとすれば、正確なデータくらいだ。予測というのは、正確なデータを積み重ねることで確実性を増す。もちろん前述した通り、100%にはならない。しかし、経済の未来を主張する学者が膨大なデータを示すように、気象予報士が最先端の技術と学術で明日の天気を予想するように、道端の胡散臭い占い師ですら分厚い本を携えているように、データはそれが正確である(と信じられるだけの裏付けがある)ならば、未来の姿を担保するものとなる。Aくんが知らないであろう情報なら、その裏付けをきちんと説明した上で、伝えてあげるべきだろう。それによってAくんの決断はより「納得できる」ものとなるかもしれない。

 翻って、当該名言はどうか。何らデータ性がない。ましてや「大人」などという漠然とした表現でお茶を濁そうとする、迷惑で勝手な発言だ。仮に「大人」が「これからの挑戦における成功率が高くなる」という意味だとしても、それが保証される失敗など限られている。例えば数々の検証可能なデータをもってして行った挑戦において、失敗し、それらの再検証を行った上で同じ挑戦をするなど、そういった限定的場面ならば「成功率は高くなる」かもしれない。しかし、ここでAくんに向けられたこの名言はそのような背景には鈍感である。どのようにつまずいてどのように成功率が高くなるのか、そういった側面に寄り添った論理がない。この名言を見て「よし、やろう!」となったところで、結局無駄な失敗をして無駄に落ち込むだけだ。何故なら、盲目な名言によって突き動かされるような浅い挑戦に、検証可能性は無いに等しいと言えるからだ。

 さて、言い尽くしてはいないが、Bくんのケースに移る。Bくんは残念ながら挑戦をして失敗した。期待を持って転職したらブラックだったり、自費出版したら売れなかったり、告白したらフラれた。よくあるBくんの挫折は、不安感を呼び、臆病になっている。このBくんに向けられた当該名言の「恐ろしさ」を分析しよう。

 Bくんは、失敗した。それは動かせない事実だ。変化が期待できるのは未来だけである。その未来において、行動主体となるBくんはいま、臆病になっている。過去がチラつくからだ。何とか元気づけたい名言の話者は、「大人になれたんだから元気出せ」と言う。はっきり言って、話を聴いているのか疑問である。百歩譲って、仮にこの挫折体験が「大人になる」に十分なものだったとして、元気がないこととは無関係である。過去を引きずっているから落ち込んでいるのだ。その映像を想像してあげられるくらいに敏感な話者なら、その過去に「大人になるための経験だった」という無価値な情報を見出して指摘することは、至極無駄であることに気づくだろう。

 先ほど「大人」の意味を最大限好意的に解釈して「これからの挑戦における成功率が高くなる」と言い換えた。加えてそれは、きわめて限定的な場面での、検証可能性のあるデータが十分に揃った挑戦における失敗にのみ適用される、と解説した。それに則るなら、ここでBくんが行うべきは、無価値な名言によって役に立たない「元気」を捻り出すことなどではなく、詳細な検証である。何がどう起こったのか、挫折の過去映像をよく見返してみる。失敗の原因は100個あるかもしれない。その中には成功の理由になり得たものもあったかもしれない。99%成功に向かっていたのに、最後の最後で失敗したのかもしれない。こうした知的な分析において、当該名言の「大人になるための必要な経験だった」などというナンセンスな意味づけは、ど素人解説者の副音声以上にノイズなのが分かるだろう。

 もう述べる必要もないかもしれないが、この場面でBくんに必要なのは失敗の原因を見つめられるだけのデータである。それなら教える意義はあるかもしれない。僕が話者だったら、そんなに頭が良くないので、このように悩んでいるBくんがいたとしても、積極的にデータは明示しない。当事者にしか分からないことが山ほどあると思っている。そのギャップを差し引いて、なおかつBくんが気づいていないようなデータがあったら提示する。そのくらいの冷静さがないと、Bくんをさらなるどん底に突き落としかねないのだ。無論、並程度の冷静さがあれば、当該名言に心動かされることなく平穏にその場をやり過ごすだろうが。

 

 長くなってしまったが、想定される批判について補論を述べる。まず「元気を出さなければ過去を見つめ直すこともできないのだから、この言葉にはそういう意義がある」という批判。これに関してはノイズという断言をもって再批判する。先に述べたように、当該名言はただのノイズなのだ。元気づけるだけなら他にもやり方がある。穿った見方をするなら、こんな雑で稚拙な名言で元気づけようとするのは、悩んでいる当人への侮辱行為である。一緒にカラオケでも行ってあげた方がマシだ。

 次に……と5つほど続けるつもりだったが、これは批判が出てからにしようと思う。この論を完成させたいのではなく、文章自体に何らかの意義があればと思い書いたに過ぎない。多分に拾い切れていない議論があることは承知しているが、欠陥は過剰に優る場合もあり、このような名言批判は「さらなる議論を呼ぶ」という期待を込められる点でその場合に当てはまると考えているので、ここで筆をおく。

レトリックの展望を夢見る

 認知言語学という学問がある。このブログで触れたかどうか忘れたが、簡単に説明すると、人間の「ものの捉え方」から言語を解明する学問だ。発展途上の領域なので、今でも続々と論文が登場しては、議論が活発に起こっている。このブログでもいずれ、その最前線の議論も取り上げながら、その実態に迫っていくことを試みるつもりである。

 さて、認知言語学の詳細については別の機会に筆を譲るとして、今回は僕が「現時点で」思っているレトリックの展望について書こうと思う。短いので、しばしお付き合いを。

 レトリックは、その昔、人をたぶらかす弁論術として名を馳せた。悪名高いレトリックは多くの哲学者から嫌われた。かの有名なプラトンもレトリックは「化粧術」だとしてその実態を大いに批判していた始末である。言うまでもなくレトリックは〈弁論の技術〉であった。また並行して、文学で使用されるレトリックは、〈芸術的表現の技術〉として扱われた。卓抜した比喩表現などがそれである。

 歴史はしばらく変わらなかった。レトリックはふたつの〈技術〉的な面だけを取り上げられ、ある意味では嫌われ、ある意味では好まれた。そんな中、認知言語学の発端を担った数々の言語学者や哲学者の中から、レトリックの真価について迫る研究が出てきた。それまでの〈技術〉的なレトリックからは想像もつかない、レトリックの真なる意義。それは〈発見的認識の造形〉にある、と。

 人は体験をする。それを文章に書きたくなる。フィクションで、日記で、紀行文で、論述で。その文章には、言葉が使われる。あなたの日記を見返してみよう。SNSを読み返してみよう。日本語が並んでいるはずだ。しかしそれは「辞書」に載っている「正式な日本語」ばかりで書かれたものではないはずだ。そこにはいろいろなレトリックが使用されているのが分かるだろう。レトリックとは、言い換えれば「正式な日本語からの逸脱」である。

 例を挙げる。川端康成は雪国の冒頭で「夜の底が白くなった」と書いた。これは、どんな辞書を見ても載っていない言葉だ。それなのに、川端はこの文章を「書けた」。もちろん天才的な文学センスをもってしての仕事なのには間違いないが、辞書に倣って書いているだけでは到底生まれなかった文章だろう。逆に言えば、僕ら人間の〈認識〉は、辞書的で正式な日本語だけでは言い表せないのだ。

 恋をした。そのときの気持ち(=認識)をドンピシャに表してくれる日本語は、広辞苑に載っているだろうか。載っていなければ、レトリックを使う。比喩を使う。誇張してみる。倒置する。あの手この手で自分の〈認識〉を切り取る。そのときまさに使用するのが、彼の第三の役割、〈発見的認識の造形〉の力だ。

 というように、認知言語学においてレトリックは、人間の認識そのものとして扱われる。決して技術ではない。その方向で、様々な研究結果が出ている。まぁ、そのあたりの詳細はおいおい。

 翻って未来。僕は、どうやらこのレトリックが〈技術〉に舞い戻ると考えている。認識としてのレトリックは、さらに発展するだろう。優れた書物があふれ出て来て、僕らを魅了してくれる。その先に見えるものは何か。

 僕らは文章を書く必要がある。ときには論理的に、ときには芸術的に。コミュニケーションを言語で行う動物の宿命だ。そんな僕らが、〈技術〉としてのレトリックを手放すとは思えない。ほら、もう〈技術〉なんていう言葉を使われた時点で目が泳いでしまう。知りたくなってしまう。人間は技術を獲得して栄華を極めた。言語に関する技術は、多くの人を魅了してきた。事実、古代ギリシャにおいてレトリックは「強者の証」だったし、今でも必修させる国もある。どうだろう。このまま〈発見的認識の造形〉という点のみが語られていくだろうか。

 認識を発見するために、レトリックが果たす役割が大きいのなら、それを恣意的に使えれば、そう、ちょうどアクセルを踏むようにレトリックを使えれば、新たな認識を思うままに獲得することもできるのではないか。〈認識の発見を促す技術〉としてのレトリックを想像すると、ワクワクする。レトリックに第四の意義を見出してみたいが、それにはまだ勉強不足だ。今は夢見ておくだけにとどめる。

ちょっとウザいバイトの先輩文体

 自分でも思う。いや、文体変わりすぎて気持ち悪い。ツイートとか対談ブログの編集後記とか、こう、あんまり人に読ませる気がないような、自慰行為かセックスかで言えば完全に同時三点攻めの文体だけど、ひとたび「論理的な文章とは」なんてものにとりかかっちゃうと、伝わらないことが怖すぎてガッチガチの文章になってしまう。でも文体って何なんでしょうね。あまり分解したことがないので、今回は少しだけここにアプローチしてみます。僕が真面目に書いていないときにありがちな「僕なりのレトリック」を解体していきます。スクランブル交差点で写真撮ってる外人いるじゃないですか。あのファインダーに肛門くっつけるみたいな感じです。自分の文体解説って。

 という一段落目。真面目に書く気はゼロなんですけど、一応気をかけてはいます。大家族だって全員同じ膣から出てきたように、僕の文章は全員僕から生まれました。どれも可愛い。じゃあそいつら、どうやって育てているか。いろいろなレトリックがあるんです。

 一郎くん。奇先法のアレンジ。最初の「自分でも思う」ってあるじゃないですか。こんな書き出しされても、何のことやらわからないですよね。でも、読み手は「何のことやらわからない」から読んでくれるんです。CM明けにさ、入る前の映像がちょっと繰り返されたりするじゃん。もう観たやつ。あんなん飛ばすよね。観ないでしょう。それと同じで、何が起こるか予想されちゃったら読んでもらえない。堅い用語で《奇先法》って言います。どうもレトリックの用語って堅いのよ。これまだマシな方で、撞着語法とか偽悪的賛辞なんてのもある。まぁ、仰々しい方がかえって理解しやすいときもあるし、何とも言えないよね。

 二郎くん。「いや」っていう間投詞。これがどういう効果をもたらしているか。ちょっとした接続詞っぽく使っています。何てったって奇先法。ぶん投げたら放っておかれるのが世の常。ちゃんと受け止めてあげないと。何を「自分でも思う」のか、ちゃんと明示することを示す間投詞。何で「それは」っていう繋ぎ方をしないかって? これが文体調整。くだけて不真面目な感じにぴったりでしょう、この間投詞。接続後を省くのは《断叙法》なんていったりするけど、これは間投詞で代替してるから亜種かもね。

 三郎くん。あ、三文目ってことです。ちょっと長い文。すらすら読んでもらうために「こう」っていう合いの手を挟んだり何やかんやしたけど、一番意味わからないのは「自慰行為かセックスかで言えば完全に同時三点攻めの文体」ってところだよね。自分でも分かってません。以上。強いて言えば《文脈比喩》なんだけど、その構成要件であるところの「関連性」ってやつが薄い。自慰って言えば済むのに、わざわざ「同時三点攻め」なんて言っちゃってる。比喩表現自体にユーモアを込めるの、本当によくやります。すいません。バカのひとつ覚えです。母子家庭なので許してください。

 いろいろあるけど、最後にします。「スクランブル交差点で写真撮ってる外人いるじゃないですか。あのファインダーに肛門くっつけるみたいな感じです。自分の文体解説って。」という三文。これね、まぁただの直喩なんだけどさ、配置が独特でしょう。おそらく普通の文法に則って書くなら「自分の文体解説って」から始めるよね。でも、これ、実は凄く自然な流れになってる。だってさ、まず「スクランブル交差点で写真撮ってる外人」を思い浮かべてもらいたいじゃん。それが済んだら「ファインダー」を続けて想像してもらって、「肛門くっつけ」て、それが何なのかを明示する(自分の文体解説)。大げさに言うと映画みたいに文を綴っているんだよね。これをすると、読み手の人に映像を伝えやすいというか、頭を動かさなくても読んでもらえるというか、とにかく相手への負担は軽減できる。レトリック用語で何て言うんだろう。見かけたことないから《映像化負担軽減法》なんて呼んじゃおうかな。

 こんな風に、いつも結構気を遣ってます。肩の力をモヤシくらいにして書いているように見えるでしょう。まぁそうなんだけどさ、それでも頭のどっかは動かしてるの。それが楽しいんだよね。終始「語り掛け文体」で書いたけれど、たまにはこんな練習もしたくなるんです。またいつもの堅い文体に戻るよ。新しい文体を思いついたら練習しにきます。じゃあ、またね。

松岡修造ユーモアに抱く違和感

 極度の寒暖が見られたとき、必ずと言っていいほど流れてくるのが「松岡修造が今どこにいるのか」というユーモアだ。これが、文字通り寒気がするほどつまらない。その理由について分析してみようと思う。

 ユーモアには二種類ある。いわゆる「常識」から逸脱することによって生まれるユーモアと、それが慣習化して馴れ合い的に生まれるユーモアだ。ここでは便宜的に、前者を<コード逸脱型ユーモア>と、後者を<共通コード型ユーモア>と呼ぶことにする。

 このふたつの境界は曖昧だ。かつて一世を風靡した「ラッスンゴレライ」は、もともと<コード逸脱型ユーモア>として認知され、多くのファンを獲得し、いつしか<共通コード型ユーモア>へと変容、流行語になり、近所のおばあちゃんにも通じるようになって、今では忘れられている。ラッスンゴレライからの逸脱(パロディなど)も生まれる始末なので、誤解を恐れずに言うなら「辞書化」したと言えるだろう。曖昧であるからこそ、その境界には敏感であることが求められる。どの層に使うかを見極める能力は、その人がユーモラスであるかのひとつの物差しになる場合もある。が、ここではそこについては論じない。

 さて、<共通コード型ユーモア>は基本的に面白さが薄い。ただし、ここで「重要かつ示唆的な例外」を挙げなくてはならない。それは、その共通コードが「少数の母体」によって運用されている場合だ。多くの人には通じない仲間内での言葉や、モノマネ、ギャグ、そういったものはしばしば笑いを誘発する。これは共通コードに内在するユーモアに「気づける自分」という感覚が心地良いからだろう。ローカル番組で8.6秒バズーカーを発見してその内在するユーモアに気づける自分に心地よさを感じていた層は、それが少数の母体からだんだん拡大していった時点で、笑うことをやめてしまった。彼らにとっては死んだユーモアになってしまったのだ。

 松岡修造ユーモアは、どの位置にいるだろうか。ネットでこのユーモアをコード的に「理解」できない人は、おそらく存在しない。既に辞書化していると言える。しかし、ラッスンゴレライのように毎日メディアに流れるわけではないので、そこに気づいていない発信源が多い。未だに新鮮な<コード逸脱型ユーモア>だと感じている人が多いように思える。ここに違和感を覚えるのだ。

 松岡修造ユーモアを見かけたときの感覚を雑に喩えるなら「夫婦とは結婚した一組の男女のことを意味することが判明www」という文言を見たときのそれである。辞書化したコードに言及されても笑えるはずがない。コード逸脱のユーモアでもなく、少数の母体による共通コードでもなく、流行を自覚している共通コード(ラッスンゴレライなど)でもない。何とも中途半端な位置で使用されている。いっそNHKで取り上げて流行語にしてもらいたい。そうすれば流行を自覚している共通コードのような距離感で使用する人が増え、次第に忘れられていくのだろう。頻度が低い分、そのように変容するにも時間がかかる。このへんが「バルス」と非常に似ていると感じる。

 ユーモアはすべて「初めての逸脱」を目指すかたちで生まれてほしい。この価値観にさしたる根拠はないのだが、共通コードを共通コードと自覚しない上で、そこにユーモアを見出す怠惰さに、どうしてもイラついてしまうのだ。