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童話(@tatanai_douwa)の詳細です

ルーマニア女子大生殺害事件とTwitter

 誰かのツイートを契機にして、数時間にわたるネットサーフィンが始まる。週に一回くらいはそんな体験をするが、今回は思わぬ知見を得た。

 Rumania Montevideoというアーティストがいた。いくつかアルバムを出して、突然活動を休止した。1999年に世に出したデビューシングルは、コナンのアニメのEDで知られる。その「Still For Your Love」が児童虐待についての曲であることからも分かるように、彼女らの音楽は切ないテーマ性が軸となっている。張り裂けそうなドラムボーカルと、優しい曲調で、聴く者の心を揺さぶる。この曲のURLをツイートしていた相互フォローの人が、今回のネットサーフィンの立役者だ。

 彼女らの現在が気になって検索を続けた。情報は皆無だった。ギターの人が大阪でギターの講師をしていること以外は分からなかった。そんな中、多くのネットサーフィンがそうであるように、突如興味は移る。Rumania Montevideoのスレッドに書き込まれていた「ルーマニア女子大生殺害事件」という文字列。スレッドをスクロールする手を止め、Googleを開いた。

 凄惨な事件である。ルーマニアにインターンをしに行った女子大生が、現地に着くや否やルーマニア人の男性に騙され、嬲り殺された。加害者の狂気もさることながら、僕を驚かせたのは、そのインターンの母体(アイセック)である。何とその女子大生を現地にひとりで行かせたというのだ。少し調べればわかるが、ルーマニアの治安ははっきり言ってお粗末なものである。彼女のTwitterの魚拓によれば、ひとりで行くことがわかった彼女は、泣いて嫌がったらしい。それなのに、アイセックの対応や計画は杜撰を極めていた。(詳しい事件の経緯はこちらを参照。)

 想像をすることがある。あのときTwitterがあったら、タイムラインはどうなっていたのだろう、と。第二次世界大戦、東京オリンピック、昭和天皇崩御。今回は、想像するまでもなく、2012年の事件なので、タイムラインが存在していた。そこで、当時Twitterをやっていなかった僕は、童話のアカウントでこんなことを訊いてみた。

twitter.com

そして、リプライをしてくれた方がいた。許可を得たので、掲載する。

twitter.com

 予想通りにも程があって、思わず苦笑してしまった。人は、ここまで同じことを繰り返すのか。

 ルーマニア女子大生殺害事件を整理する。加害者のルーマニア人男性と、被害者の女子大生と、インターン母体のアイセック。ラベリングをしてみよう。悪、弱者、隠れた悪。このモデルケースは、ありとあらゆる事件にあてはまる。そして、それらに対するタイムラインの反応も、テンプレート化していると言える。

 まずは「悪を叩く」。当然だ。その次に「弱者の無防備さを叩く」人間が出てくる。当然の如く悪を叩く風潮から一歩抜け出したいというTwitterユーザー特有の思考によって。そして別の人間が「隠れた悪を叩く」という経路をたどり、最後の人間はメタ視点に移る。「いつまでこんな話してるんだよ」が決まり文句だ。

 話者は変われど、この順序は変わらない。マウントの取り合いである。そこに主張は存在しない。ただ「現象」だけがある。このまま流されていていいのだろうか。未だにTwitterをやり続けている身としては、索漠とした羞恥心だけがある。

 

流されてく人の波 最期のひとりになっても 硬いベッドに身体横たえて

            Rumania Montevideo「群衆」

一石四鳥の最強ツール「少納言」について

 言葉というのは有限である。造語という例外を除けば、自分たちが使用できる単語や表現は、すべて既存のものだ。自分が書きたいことにそぐう言葉を「既存の言葉たち」から、見つけ続ける。その作業こそが、文章執筆なのだ。

 既存の言葉は、使用された過去が膨大にある。料理人がひき肉をハンバーグにするように、大工が木材を家にするように、言葉は作家や文筆家の手によって「文章」にされてきた。しかしレシピや建築物と違い、それらはあまり参考にされることがない。クックパッドに使いたい食材を入れると、先人たちの料理法が一覧として出てくる。一方で、使いたいと思った言葉が実際に使われている様子を閲覧できるシステムは少ない。いや、少なかった。

 少納言(KOTONOHA「現代日本語書き言葉均衡コーパス」 少納言)という無料のサービスがある。簡単に説明するなら、クックパッドの言葉版である。例えば、上の文章で「そぐう」という単語がある。僕は、この言葉を使用する際に「あれ、そぐわないっていう否定表現はあるけど、そぐうっていう肯定表現はあまり見ないな」という葛藤があった。そうだ、少納言に「そぐう」を入れてみよう。

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 このように、作家によって使用された生きた例が出てくる。前後の文脈も見られるので、クックパッドの例で言うなら「この食材にはこういった調味料の相性が良い」ということが即座に分かる。単純に表現のストックも増えるので、一石三鳥である。

 今は「使いたいと思った言葉」で検索する一例だった。次に、少納言で多様な知識を身につける方法について考えてみよう。例えば、レポートの課題が「谷崎潤一郎」だとする。そうした場合、多くの人はまずWikipediaにアクセスするだろう。Wikipediaは便利だが、通り一遍のことが書いてあるばかりで、あまり生きた素材にはなりにくい。そこで、少納言で「谷崎潤一郎」と入れてみる。

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 谷崎潤一郎について言及された書籍が山ほど出てくる。気になったものをメモして、図書館に出かけよう。このように文献を知る機会も作ってくれる。四鳥目だ。

 「表現を磨く」という行為は、抽象的であり、結果論でしかない。まずは模倣、参考、これが肝要だ。少納言は、そのどちらにも使える最強の「表現ツール」であり、また「文献レファレンスツール」でもある。ブックマークしておいて損はない。

 

心肺

 次の文章を読んで、以下の問いに答えなさい。

 

 

 

 窮屈だ。周りを見渡すと、同じような見た目をした奴らがひしめきあっている。

「ねえ、ここのカフェさ、本当に人気なのかな。コーヒーそんなに美味しくないけど」

 沙希は憮然としている。退屈そうにストローをいじり、子供のように氷を鳴らした。

「健二くん、体調悪いの」

「別に?」

「嘘だあ、じゃあ何かあったんでしょ。なになに、恋の病?」

「そんなわけないだろ」

「彼女でもできたの?」

「できないって。できると思うか?」

「うーん、わからない。でも健二くんみたいな人、モテるんじゃない?」

「お世辞はいいよ」

 ああ、早くここから出たい。

 

 健二と沙希は大学の同期で、同じサークルに所属している。よく二人で遊ぶが、お互いがお互いを友人関係と認定している点を心地よいと思っている、典型的な一歩寸前系男女だった。しかし、沙希は決して「いいムード」にさせない。すべてのアタックを冗談として受け取る。ようにしている。のか。まったく分からない。健二は、沙希と会うのが面倒になっていた。それはすぐに態度に出てしまい、沙希を苛立たせる。「ただの友人関係」なのに何でこんなにややこしくなっているのか。健二はもやもやしていた。

 

「喫煙なの?」

 沙希が不服そうに言う。

「うん、こんな純喫茶っぽいところで禁煙なわけないだろ。あ、ほら、灰皿もあるし」

「煙いから横に吐いてよね」

「いつもそうしてるだろ」

 健二は眉の幅を狭くしながら煙を吐いた。さっきより少し、窮屈さが軽減された。

「健二くんってコーヒー好きなの?」

「好きだよ」

「いつもブラックだよね」

「最初は格好つけてただけなんだけどね。いつの間にかブラックしか飲めなくなった」

「そういうの素直に言えるのいいよね」

「なに?」

「カッコつけてることを、自覚してるのが好き」

「からかうなよ」

「素直が一番だよ。素直がさ」

 

 健二は人の目を過剰に気にするタイプだ。男女問わず、どんな人間の前でも格好つける。だからこそ、格好のつけ方もよく心得ている。どこまでも泥臭く、わざとらしく格好つける。そうすれば、相手は笑ってくれる。好感を抱いてくれる。謙遜はあまりしない。いやらしいからだ。自慢は大げさにする。いやらしくないからだ。そうやって生きてきたから、自分の思い通りにならないとイラつく。勝手だが、勝手な自分を気に入っていた。

 

 人は不思議な生き物だ。さっきまで退屈そうだった奴が、今では顔を赤らめている。

「もうさ、健二くんと付き合っちゃおうかな」

「え?」

 突然引きずり出される。何だよ、もう。

「男の人でちゃんと話せるの、健二くんしかいないし」

「いや、え、何で急に?」

「急じゃないよ、何とも思ってない人と何回も遊んだりしないって」

 火をつけられる。熱い。

「何も気づいてなかったの」

「うん、ごめん」

「ちょっと寂しいよ、それは」

「わからないんだよ」

 揺さぶられる。痛い。

「わからないんだよ、そういうの。友達でいたいのかと思ってた」

「待ってたんだよ、壁を壊してくれるの。男なのに情けない」

 また揺さぶられる。寿命が縮んでいくのが分かる。

「知るかよ!」

「何よ」

「自分勝手だろ、そんなの。俺だってさ」

「何で急に怒ってるの? 全然意味わかんない」

「こっちのセリフだよ。あぁ、何だよもう」

 脳天を叩きつけられる。激痛が走る。死にそうだ。

 

 沙希が荷物をまとめた。伝票を取ろうとする沙希に、健二はお決まりの文句を言う。沙希は手を引っ込める。

 健二はきっと後悔しているのだろう。俺にはよく分からない。

 

 

 

問い 下線部「俺にはよく分からない」とあるが、どういうことか。文章全体を考慮した上で答えなさい。

70セントの煙草を巡る問題

 アメリカの煙草店で70セントの煙草を10ドル札で買った。日本でなら、引き算をして「9ドル30セント」のお釣りを渡すだろう。しかし外国では普通引き算をせずに「10ドル札に対しては10ドルのものを渡す」というふうに考える。まず70セントの煙草を渡し、次に10セント硬貨を1枚ずつ出しながら「80、90、1ドル」と数える。それから1ドル札を「2,3,……」と、10ドルになるまで渡す。

 店番の女の子は手順通り煙草と10セント硬貨を3枚出した。「これで1ドル。OK?」ここまでは良かった。それから1ドル札を出しながら「2,3,……」と数えていったのだが、どういうわけかカウントは9でストップしてしまった。1ドル足りないことを指摘すると、彼女は「さっきこれで1ドルって言ったでしょう。それと9を足して10ドルよ」という返答。

 さて、この明らかに間違っている店番の女の子に対し、皆さんならどういう対応をするだろうか。是非難局をうまく切り抜けてほしい。

 

 正しいことを正しい理屈で説明しても、なかなか納得してもらいないことはしばしばある。説明の目標が「相手に分かってもらう」ことであるなら、偏屈な哲学者よりも、上に挙げた店番の女の子の方が、手ごわい敵だろう。

 知らないことを分からせるのは至難の業だ。小学校一年生に微分積分を教えられないのと同じである。いくら明快で正しい説明をしても、掛け算すら知らない彼らに微積を分からせるのは無理だ。

 大切なのは「相手が分かっていること」を見つけることである。小学校一年生なら、足し算を分かっているだろう。ならば、足し算を使って掛け算を教える。理解してもらったら、今度は四則演算を教える。Xという概念を導入する。変数が使いこなせるようになったら、ようやく微積を分かってもらう下地が整ったと言える。もちろんこれには何年も要するが、こういった手順を踏むことは絶対に必要なのだ。「説明」は、「相手が分かっていること」とリンクさせないと成功しない。掛け算は足し算を媒介して理解されるのだ。

 問題の事例における「説明」も同様である。「店番の女の子が分かっていること」を媒介させない説明は、徒労に終わる。相撲を取りたいなら、相手の土俵に上がらないといけないのだ。この姿勢をとるなら、以下のような説明は不正解であることが分かる。

・9と1を足すのは道理に合わない

・10ドルで70セントの買い物をしたのにお釣りが9ドル以下であるわけがない

・1ドルを二重に数えてしまっている

これらはすべて「自分の土俵」で行ってしまっている説明である。彼女には伝わらない。「知らないわよ、お釣りはこう渡すものなのよ」と言われて終わりだ。

 繰り返すが、正しい説明が必要なのではない。相手が分かっていることに寄り添った対応が必要なのだ。そこで、彼女の実績を見てみよう。

 計算が弱い彼女は、お釣りの渡し方(10ドルには10ドル分のものを渡す)だけは心得ている。実際に、70セントの煙草に対し30セントを出すところまでは完璧だったのだ。つまり、1ドルに対する取引は出来る。これを利用しよう。

 まず、10ドルを1ドル札10枚に両替してもらう。商品が関わらないので容易にできるはずだ。そうしてから、1ドルで煙草を購入する。どうだろう。取引が成功するのは目に見えているではないか。

 困った時ほど「相手が分かっていること」に目を向けてみよう。自分の土俵で無理やり相撲を取ろうとするのは、賢い姿勢ではない。この示唆的な事例は、何とニューヨークでの実話らしい。こちらの本に詳細がある。興味のある方は読んでみることをオススメする。詭弁と強弁(店番の女の子)に慣れるための格好の教材だ。

 

詭弁論理学 (中公新書 (448))

詭弁論理学 (中公新書 (448))

 

 

 

文章を縦に組み立てるときの留意点

 友人のオカマが常々「文章をまとめる能力が無い」と漏らしていた。偶然にも別の女性からも同じ愚痴を聞いた。二人の話を要約するに、どうやら結論という到達点に辿りつくまでに、様々な形で脱線してしまうという。よく言えば「気が利く」のだ。あれもこれもと心配しているうちに、散らかってしまう。結局何を伝えたいのか分からない文章が仕上がる。どうしたものか。

 この問題について考えるために、立ち返らないといけない観点がある。そもそも何のために書くのか、ということだ。まずは、そこに自覚的になりたい。裏を返せば、書きたいことがないうちは書かない方がいいのだ。書きたいから書く。そして、書いた文章には、その強度は様々ながら、必ず「主張」が含まれる。その主張は、誰かに伝えたいメッセージであるはずだ。つまり、伝えたいから書く。

 では、なぜ伝えたいか。その「主張」と違う意見を持っている人がいるからである。「主張」がピンとこないなら「感性」と言い換えてもいい。その「感性」を理解しないであろう人がいるから伝えたい。その試みこそが文章を書くことであり、自分と違う人間がいるという当たり前の事実こそが文章を書く原動力なのだ。この事実を念頭に置いて書くことで、問題の大部分は解決するはずだ。

 

 今までの話は、ある意味精神論である。実践的な面では、以前このような記事を書いた。 

tatanaidouwa.hatenadiary.jp 

 ここでは、「読み手の問いに気づくこと」「使用する接続詞に自覚的になること」という伝えたいことを伝えるための実践的なアプローチを述べた。今回は、それをマクロな視点に落とし込んで、文章を「縦に組み立てる」ことについて考える。

 「縦に組み立てる」とは、言い換えれば文章に一貫性を持たせることなのだが、先ほど述べたようにそう難しく考える必要はない。「文才」などという曖昧な能力と違い、これに関しては訓練ができる。推敲だ。推敲には、様々なツールが存在する。その文章が「縦に組み立てられているか」をチェックするという観点に絞って、そのツールとして考えた【キーワードレファレンス】を紹介しよう。

 【キーワードレファレンス】とは、書いた文章の中で一番「伝えたいこと」に近いキーワードが、文中でどのように使われているかを参照することだ。ここで大事なのは、キーワードは「テーマに近いもの」ではダメ、という点である。テーマではなく伝えたいことに近いキーワードを選ぶ。テーマが猫でも、主張が「猫は怖い」なら、「怖い」の方をキーワードに設定しなければならない。

 この文章の第一部、精神論について書かれたまとまりがあった。三段落、500文字ちょっとの文章だ。ここに【キーワードレファレンス】を導入してみよう。テーマは「文章をまとめる際の精神」である。しかし、主張は「伝えたいということを忘れるな」である。つまり、設定するキーワードは「伝えたい」が適切である。レファレンスしてみよう。

 第一段落。卑近な経験から始まり、段落最後に「結局何を伝えたいのか分からない文章が仕上がる。どうしたものか。」というキーワードを含む文章が現れる。第二段落でも、またも段落最後に「伝えたいから書く。」という文章が出てくる。最終段落では二か所、「では、なぜ伝えたいか。」「その「感性」を理解しないであろう人がいるから伝えたい。」という文章が見られる。

 さて、【キーワードレファレンス】を行うと「段落ごとの役割」がおのずと浮かび上がってくる。第一段落で問題設定をした。第二段落ではそれを受けて、何のために書くかという視点を紹介し、伝えたいために書くという結論を出している。最終段落では、なぜ伝えたいのかを考え、新たな論を展開し、問題解決の姿勢を提示した。ざっとこんな感じだろう。

 【キーワードレファレンス】の効果は「段落の役割を浮かび上がらせる」という点である。これは推敲の際にとても便利だ。役割が不明、または役割が無い段落は「縦に組み立てる」という観点からすると、不要でしかない。その指標として、キーワードが挙げられる。キーワードがない段落は、役割が不明あるいは無い可能性が高い。つまり、高確率で不要な段落である。その段落を「役割を確定させる」か「削る」という作業にかけることで、文章が縦に組み立てられていく。

 

 蛇足ながら。【キーワードレファレンス】は推敲ツールとしての提案だが、これはまだ実証が不完全である。どのくらい実用性のある推敲ツールなのか、これから様々な場面で検証していきたい。どのような例外が発見され、どういった使用実績が積まれるか、興味津々である。整備して、よりよいツールにしていきたいので、できれば皆さんには、これを使ってもらいたい。そしてこのツールの感想、また修正案などを寄せてください。ご連絡待っています。